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     (32)麻雀徒然草(2)


 昭和5年、日本麻雀連盟の機関誌である麻雀春秋に連載された大麻朱雀郎氏のコラムの続き。


 張作霖の麻雀

 張作霖はニ十年も打ってた癖に空っ下手だつた。併し好きは非常に好きだつた。人間の道楽は昔から飲む、打つ、買ふのころだと相場が決つてゐる。張作林や張宗昌の豪傑建と来ては、この三拍子とも図抜けて発達してゐて、めつたに人にひけ目はとらない。

 副底は十で一符十圓が普通だが、少し弾むときには百圓で打ってゐた。
 張作霖はもって生れた負け嫌ひな男だけに、麻雀でも負けるのは大嫌ひだった。勝つと子供みたいに跳り上つて喜ぶが、手がつかずに落目になるとすっかり不機嫌になってしまふ。玄人のうまい連中は誰も張作霖と打つのを逃げたがった。

 八百長をやって勝たせなくちゃならないので、打っても一向に面白くないからだ。打ってる内に張作霖が阿片を喫む時刻が来て座を外すと、みんなホッとして胸を撫で下したといふ話である。

 ところが智恵の多い手合いになると、これを出世の道具に使った者がある。即ちわざと悪牌を捨て、張作霖に大きな上りをやらして有頂天に喜んでゐるスキを狙って巧く話を持ちかけかけるのである。大元帥政府時代に財政総長をやってゐた閻澤博などはこの手で出世した人で、國庫の鍵を握るまでには、長いことイヤなこの御相手の役を買って出て、郷里の吉林の山林や地所を惜しげもなく打ちつぶしたものだ。

      二萬五千圓の小便

 張宗昌は水滸伝式の豪傑なので、麻雀の打ち方も極めて雄大で鷹揚だ。彼も負けることは嫌ひで、無理を押し通しても勝たなくちや気の済まない性分である。したがって親分の張作霖と打つのは嫌なので、誘ひをかけられても何とか逃げ口上を造って、滅多に相手にならうとはしなかつた。

 彼は勝つと相手を稔ぢ伏せてゞも勝ち符を取り上けるが、自分が負けた時は何やかやと理屈をつけて出し渋る。別にケチなわけではないのだが、要するに負け嫌ひなのだ。

 “軍事會議と麻雀”で書いた順永王府の麻雀大會の時は、一向に手が付かずに、何でも總計で二萬五千圓許り負けた。ととろがイザ精算となると、彼はイキナリ大きな声で「ロハ博打じゃさっぱり身が入らんワイ」と言いながら、雷みたいな豪傑笑ひを残したまま、サッサと帰ってしまった。さすがに二萬五千圓の小便は大きい。

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