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    (33)麻雀徒然草(3)


昭和5年、日本麻雀連盟の機関誌である麻雀春秋に連載された大麻朱雀郎氏のコラムの続き。

  賭博と麻雀
 
 支那人の麻雀は大抵金を賭ける。単純なアミユーズノントとして金を賭けずにやるのは滅多にない。友達同志や芸者などを相手に打つときは云ふまでもないが家庭の中で家族同志でやる時でも金を賭けてゐる。

 こんなのは教養の低い家庭ばかりかと云ふと必ずしもそうでなくて、革命の元勲として権勢の高かつた黎元洪が大総統として北京に住んでゐた頃は、夕飯の済んだ後で小供たちを集めて四圏づつやるのを毎晩の日課にしてゐたが、これにはごく僅かだが金を賭けてゐた。

 小供達は前もって麻雀資金といふものを貰っていて、これが自分で勝っ手に使へる小使ひになるのだか、麻雀で負ければ直ぐにめいめいの小使ひに響くので、兄弟同士が真剣になって勝負をやっていた。

 あれだけの身分の過程のことだから、なにも金が欲しいわけではないのだが、支邦人の心理として、僅かでも金かかゝってゐるとなると競技の妙味が一段と加はって来るものらしい。

 一体に支部人は賭博に対して日本人ほどに潔癖さを持ってゐない。勝敗の結果を金で見積るのが何で悪いんだといふのだ。ばくち々生活の根拠においてゐないのなら、娯楽の勝負に金を賭けたところで、道徳的に大して悪いことじやないと考へている。

 この心理は徹底したもので、支那では都会でも田舎でもよく沢山の小供たちが道の上で銅貨をころがす遊びをやって、銭を取合ひっここしてゐるのを見かける。博打という言葉の響きから来る不快感なんか、支那人には全然ないのだ。これは長い歴史の間に培われた民族心理だから何とも仕方はない。したがって支那人は天性的に賭博者としての要素を持ってゐる。

 大官や豪商たちが、紙幣を山と積み上へげて麻雀を打ってゐるとき満貫なんかを食って見る見るうちに金が流れるやうに手許から出ていっても、顔の筋肉一つ動かさないで、平気に構へている。口惜しがって泣き言をいったり、悪牌を捨てた人に恨み言を述べたりなんかしない。黙々として、何十円、何百円の金を渡している。

 自分が勝って金が入つて来るときでも、別に悦んではしやぐやうなことはない。にこりともしない。双方とも極めて事務的に片づけるのである。こんなことは下層階級の間でも同じで、苦力同士が色んな賭事をやるときなんか、五,六日もかかって稼ぎ貯めた賃金をいっぺんに取られても、さっさと綺麗に支払ってすっからかんになった懐をさすりながらケロリとしている。

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