History 歴史

    (16)サンマ ヒストリーもどき


 といっても、特にサンマの歴史を調べたわけではない。いままで見聞きしてきた事を何となくまとめてみただけ。
“おひ、そんなんでヒストリーなんて言うなよ”なんて言われると一言もない。。。。おまけにどこか記憶違い勘違い
があるかも知れない。しかしまぁ少しでもまとめておけば、どこかで役に立つ事があるかも知れないし....
ということで、このコラムはサンマヒストリーもどきだ。(笑)

 近年ではあちこちでサンマ専門の雀荘を見かけるようになった。その意味では全国的な市民権を得たとも言える。
といってもこのサンマ、昨日今日の駆け出しではない。すでに戦前から行われていた。それも昭和の初期も初期、
麻雀が第一次麻雀ブームと言われる昭和3〜4年頃にはすでに行われていた。

 とはいえ おそらく当初はメンツが揃うまでの時間つぶし的なものであったようだ。牌もルールもヨンマとまったく
同じ、ただプレーヤーが3人だけで行われていたらしい。ところが3人だとツモ回数が多く、結構大きい手ができて
面白い。それで最初から3人麻雀が楽しまれるようになったようだ。

 しかしそうなると牌の枚数が問題となる。通常は全136枚を1人あたり34枚山に積むが、それを3人で行うのは大変。
そこで数牌を1種類使用しないことになったと思われる。そうすれば136−36=100で、1人当たり34枚ほどですむ。
当時のルールとして、「麻雀競技法と其秘訣(日本競技麻雀倶楽部・岡村書店S5/6/1)」には、次のように記載されている。

Aタイプ:北風4枚を最初から除去し、残り牌で通常にゲームする。
Bタイプ:数牌1種類と風牌を除去する。代わりに花牌二座8枚のうち(一座4枚、二座なら8枚)、
北位にあたる花(冬と竹)2枚を抜いた6枚を入れる。ポンはできるが吃はできない。

 Aタイプは北風を除去してしまうだけだが、Bタイプは風牌すべてを除去してしまう。今日のサンマは、「風牌の扱いで
はAタイプ、数牌1種類を除去する点ではBタイプ」ということになる。Bタイプで除去される数牌は万子より索子の場合
が多かったそうだ。AもBも、ルールの他の点は、当時の二十二麻雀ルールに準拠していたと思われるので、便宜上
これを二十二(アルシャール)サンマと呼ぶ。
※戦前のサンマルールについては、「麻雀実戦妙技法(柳河卓人・S5/12盛陽堂)」とか「麻雀競技法とその作戦(米沢章・S4/11・朝日新聞社)」など、
戦前の多くの本で言及されている。


 この二十二サンマからさまざまなバリエーションが誕生し、今日に至っているわけだが、その代表が四国サンマだろう。

 「麻雀101話(村石利夫・光風社・S51/7/10)」には、四国サンマは「S19年頃、徳島市在住の升田実さんという人が考案した
と言われる」
とある。とはいえ これがある程度事実だとしても、すべてを升田さんが考案したとは思いにくい。

 二十二サンマ(Bタイプ)は数牌1種類をいっさい使用しないが、現在のサンマは、国士無双や清老頭のために
一万/九万を使用するのが普通である。このようなルールの改訂に升田さんが寄与した部分があったのかも知れない。
いずれにせよ四国は戦後、サンマがいち早く盛んとなり、現在でも本場とされている。

 「麻雀101話」には、S50年頃の四国サンマとして、次のようなルールが紹介されている。
1.東南東回し。
2.ドラは後ろから5枚目をめくる。北風は抜きドラ(1枚一翻)。
3.最初、北家に当たる人が抜け、次からは親抜け。
4.45000点の50000点返し。
5.場ゾロ無し。
6.ノーテン罰、千点。次のリーチアガリ者が取得。
7.10本場から両翻縛り、15本場から三翻縛り。
8.チー無し。
9.明カン一翻、暗カン二翻。満貫子1万点、親1万5千点。10翻5割増、役満は倍満。
10.ドラが5索のとき、嵌5索でアガると祝儀1本(ワレ目という)。
11.ご祝儀牌3枚で3本(大バサミ)。
12.ご祝儀牌を順子の真ん中にしてアガったとき1本(間バサミ)。

 もちろんこれは一つの見本で、四国サンマがこのルールで統一されているわけではない。また現在、サンマは
全国的な広がりをみせているが、卓の数だけルールがあると言っても過言ではない。このさまざまなヴァリエーション
については<Sammaniax>の<分布図>に詳しい。

 ヴァリエーションの中身もさまざまで、縛りのヴァリエーション(無翻アガリ可/一翻縛り/両翻縛り)、得点のヴァリエーション
(ツモ和は1人分の得点を損する。あるいはツモ和もロン和も同得点(たとえば子満を3000/5000とする)
)などがある。

 また得点も通常の4人麻雀のように各アガリ役が翻数を持ち、符を累乗して算出するタイプと、リーチ一翻1両/
ホンイツ三翻3両というように、符はいっさい勘定しないで翻数をそのまま得点とするタイプがある。この翻数を
そのまま得点とするタイプは、従来のタイプより簡便性を求めて採用されるようになったものと思われる。

 リーチ一翻1両/ホンイツ三翻3両となれば、リーチ1点1両/ホンイツ3点3両でも、呼称が違うだけである。
そこで実際に翻数を直接点数で表すようになった。そこで分類上、従来のタイプを本サンマ、翻数をそのまま
得点とする、あるいは直接点数として表すタイプを点サンマと呼ぶ。

 点サンマは3人プレーの麻雀であるが、ルールは点サンマ式でプレーヤーは4人という点ヨンマもある。
それは昭和40年代初期に関西で行われだしたと言われる246(にしろく)麻雀である。

 246麻雀はアガリ役の点数が2点4点6点の3種類しかないので246麻雀と称される。
1.チーが無いのはサンマと同じであるが、数牌だけの108枚を使用する。
2.役は1雀頭4面子のアガリ2点(三色とか一通などの役はない)/七対子4点/チンイツ6点。
3.ツモは3人から得点する(3倍になる)。
4.リーチしなければアガれない(ポンカンしていてもリーチできる)。
5.振りテン、現物のみ(現物以外ならロンできる)。
6.ドラは1枚1点。後ろから4枚目を開ける。カンがあれば次をめくってドラ変わりする。門前リーチ者は裏ドラがある。
7.アガリ者は常に親で、親は1点。チョンボ6点。この場合、親は前の親に戻る。

 点サンマ246麻雀がどのような関係にあるのか分からない。しかしなにか関係があっても不思議ではないほど
共通点がある。

 さて点サンマは点麻雀と呼ばれ、昭和40年頃には既に関東で行われていたという。内容的に、これがこれが今日
ガリサンマと呼ばれるサンマの原点と思われる。

1.二万から八万を除いた108枚を使用。
2.タンヤオ、ピンフなし。
3.常に和了者が親。
4.チー無し。
5.北風は花牌扱い(1点)。
 1点=アガリ・門前・北風1枚 ・ドラ1枚・親・1本場。
 2点=立直・放銃。
 3点=七対子。
 6点=清一色。
 12点=役満貫。


 を引いたらと同様、横に出し、ドラとする(手牌としては使用しない)。無しでのアガリを(からす)といい、
得点を倍にする。
 摸和は他の2人から得点するので倍額となる。流局したとき、ノーテンだとチョンボとなる(相手2人に5点づつ払う)。
基本的には以上であるが、現在はリーチ者のみ裏ドラがあるなど、さまざまなヴァリェーションがある。

 当時、警視庁詰めの新聞記者会で行われていたチャガラと呼ばれる麻雀があった。新聞記者は事件があると
すぐ席を立たなければならない。そこでいつ抜けても良いという1局精算のゲームとして行われていた。

※チャガラは「茶殻」と書き、お茶の出し殻の意。しかしこの麻雀がなぜチャガラと呼ばれるようになったのかは不詳。
※茶殻のように、いつ捨てても構わない麻雀という意味か
?。

 チャガラは元々は246麻雀タイプ点ヨンマであったという。すなわち小符/親子の別は一切なく、アガったものが
常に東家になった。しかしアガリ点に点数差は無く、アガリはすべて一翻千点であった。但しツモ和すると千点オール
なので3千点となった。

 この点ヨンマであるチャガラが人数が少なくてもOKで、よりスピードがある点サンマに移行し、チャガラサンマとして
外部でも遊ばれるようになった。サンマでは、を抜きドラとするが、この抜きドラはガリと呼ばれた。といっても最初
から抜きドラがガリと呼ばれていたかは分からない。いずれにせよいつの頃からかガリと呼ばれるようになった。
ガリの語源については、ココをご覧ください。

 この頃、川田隆という人物(インテリア川田kkという会社の専務)が、趣味が高じて新宿で東天紅とうてんこうという雀荘をオー
プンした。東天紅は4人制スポーツ(リーチ系ブー)の店であったが大変にぎわった。

 しばらくして入居していた新宿のビルが取り壊されることになり、赤坂に移転した。移転しても当初は4人制スポーツ
であった。しかしより高い卓回転を求め、チャガラサンマをメインにして行くことになった。これが世に言う東天紅サンマ
である。

 それまでチャガラは、知る人ぞ知るというレベルで行われていた。しかし専門店が出来たことによって一挙に普及し、
チャガラはガリサンマとして世に知られるようになった。

 東天紅は大いに人気を博したが、諸般の事情で閉店され今はない(この辺りの事情はHPでは書けない....)。
しかしガリサンマは東天紅によって表舞台に出た。そこで現在でも東天紅がガリサンマのルーツと擬せられている。

以前へ  以降へ  目次へ