History 歴史

    (17)鹿鳴館で麻雀?


 日本に麻雀が伝来したのは大正中期(1920年頃)というのが現在の定説。もちろんこれは歴史的に或る程度ハッキリしている部分であって、実際はもう数年早いかも知れない。しかしもう数年早まるとしても、まさか明治時代にまで早まると云うことは考えられない。ところがここに「ひょっとしたら明治時代に伝来していたのではないか」という話がある。この話は麻雀博物館会報2号(00/07)にも掲載されているが、もう少し詳しく紹介する。

 2年ほど前、アメリカのVANIY FAIR(1923/11)という雑誌のP103に麻雀牌の広告が掲載されており、その中に「30年前、キップリングがマンダレイへの旅の途中で知ったゲーム」とか、「東京鹿鳴館で使用されていた牌の複製品」という記事があることが判明した。

  鹿鳴館は六華苑でも紹介したイギリス人ジョサイア・コンドルの設計で、明治16年(1883)に完成した建物。鹿鳴館として存在したのは明治23年(1890)までの7年間であるが(その後は華族会館として使用された)、その間、外交の舞台として活用された。

 そしてキップリングというのは、「ジャングルブック」の著者として有名なイギリスの作家、Rudyard Kipling(ラドヤード キップリング)のことである。VANIY FAIRの1923/11月号から30年を逆算すれば、単純計算で1893年。 そしてたしかにキップリングは1890年くらいに、2度来日している。そこで、このVANIY FAIRの記事にはいかにも信憑性がありそうに思われる。

 しかしこれだけで、「キップリングは鹿鳴館で麻雀した」とか、「麻雀は明治時代に伝来していた」としてしまうのは、あまりにも短絡的に過ぎる。VANIY FAIRには「キップリングがマンダレイへの旅の途中で知ったゲーム」とあるだけで、「鹿鳴館で麻雀した」とは一言も書いてはない。もちろん麻雀博物館会報の記事だって、同じ主旨だ。

 そこでキップリングが鹿鳴館で麻雀したかどうかは別としても、鹿鳴館が存続していた時代(1883−1890)、そこで実際に麻雀が行われたかどうかが問題になる。しかし残念ながら、これは今のところまったく不明である。

 もちろん麻雀はすでにその20年以上前の1860年頃に成立しているので、鹿鳴館で麻雀がプレーされるのは物理的に不可能ではない。しかし麻雀がアメリカで大ブームとなったのは1920年頃。当時はまだ「Mahjong」という呼称は定着しておらず、「Mahchek」とか「Pon-chow」、あるいは「ChainiesDomino」などと呼ばれていた。1920年代でこれだから、それより30年も前の1885年前後に鹿鳴館で麻雀がプレーされていたとしても、「Mahjong」とは呼ばれていなかった可能性がある。

 しかしどう呼ばれていようと、それをプレーする人たちは当時の中国麻雀のルールをマスターしていたことになる。しかしアメリカで大ブームとなる1920年代より30年も前に、鹿鳴館に当時の中国麻雀の計算法(精算法)までマスターした外国人外交官がいたという事になると、いささかウ〜ムである。

 ましてや伊藤博文や岩倉具視、あるいは東郷平八郎などが外国人から手ほどきを受け、一緒に麻雀を楽しんでいたとは非常に考えにくい。現在のオール切り上げ式だってなかなか習得できないという人もいるくらい。ましてやろくに通じない英語で、わずかな期間に精算法を習得するのは思いっきり大変だと思ふ次第だ。

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