ClassicTactics  古典技法論

     (5)雀頭が無い場合


麻雀専門誌「麻雀界」創刊号(昭和5年8月刊)に掲載された日本麻雀協会 会長 杉浦末郎の論考。現代からみれば戦術論というほどではない。しかし現代の戦術論は、このような段階から出発している。旧仮名遣いはできるだけそのままとしたが、旧漢字は常用漢字とした。

 実戦において徒に順子や搭子のみが多くて麻雀頭たるべき対子が無くて悩まされることが度々ある。双単吊として二筒三筒四筒五筒の如きものでもあれば二筒 五筒の聴牌にもなるが、下の如き場合には麻雀頭をこれから作らねばならない。何を捨てたら良いか。

 七索八索八索九索六萬七萬三筒四筒

 一寸考へると折角八索が二枚あるのだから、九索七索を捨て八索を麻雀頭にしたくなる。二,三年麻雀をやっている人々でも、九索七索を捨てて頭にしたがる。併し之は非常な間違いであって、定石としては八索を捨つべきだ。

 何故か。九索を捨てれば、必ず七索 は不要になる。二手の遅れである。此の場合の聴牌になるには、五萬 八萬、若しくは二筒 五筒が必要である。即ち必要牌は五萬4枚に八萬4枚、二筒4枚に五筒4枚の都合十六枚となわけである。

 反対に八索を捨てた場合は、五萬が来れば三筒 四筒の何れか捨てて単吊の聴牌になる。勿論八萬が来ても、同じ様に単吊聴牌となる。

 七萬を自摸すれば六萬を捨て、六萬を自摸すれば七萬を捨てて二筒 五筒の聴牌になる。また二筒 五筒が来れば六萬七萬の単吊に、三筒 四筒がくれば五萬 八萬の聴牌になる。

 故に聴牌に到達すべき牌は、万子十四枚、筒子十四枚の合計二十八枚となる。前述の八索を麻雀頭とした場合は十六枚であるが、後者においては二十八枚によって聴牌に到達し得るのである。

 斯くの如く観じ来るとき、八索を捨てるのは定石なりと云ひ得るのではないか。我々にしても、例図の如きところへ八索を自摸して来ると、どうしても八索を置いて麻雀頭にしたい様な誘惑に駆られるのである。

 八索を捨てるのが定石とは知りつつ、殊更に平和にしたいが為に八索を置くことがある。勿論其の結果は、何時でも不結果である。戦術の上から云っても、如何にして早く聴牌するかが勝負の分かれ目である。二十二点でも平和の四十点でも、早く聴牌しなければならぬ。故に何うしても八索を捨てるべきである。

 同じ様のことは、沢山ある。麻雀頭のない四萬五萬六萬のところに四萬を自摸して来ても、勿論四萬を捨てねばならぬ。

 以上のことは、一しゃん聴の場合のみならず。二しゃん聴の場合も適用せられるのです。実戦の時はよくよく注意して、損な打ち方は絶対にやらぬ事である。定石通りに打って和れない場合はあきらめられるが、定石はずれに打って和れないことは、非常に残念なものである。

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