ClassicTactics  古典技法論

     (4)麻雀戦術(3)


 C チャンスを敷へる事

 私の云ふ、チャンスとは、待ち碑が何種あるかと云ふ意味ではない。待ち牌が何種あるかと云ふ意味である。例へば二五入の聴牌と云ふと、如何にも待ち牌は多い様に思はれるが、34567とあつて、他に雀頭のある場合以外の二五八聴(たとえば2234567など)は、待ち牌は最大限度九枚であつて、両門聴とわづか一枚の差であるから、大して良い聴牌とは云はれない。

 前項で記した二三三三と云ふ形の如きは、簡単でしかも11枚の待ちがある。両ポンも嵌辺張も4枚で、単吊は三枚である事は云ふ迄もない。チャンスを数へる事は諸氏の修練と記憶に待つ可き事であって、如何にして数ふ可きかは、宜しく御研究を願ふとして、なほ述べたい事を発見した場合は、他の項と共に述べる事にする。

  D は省く。

  E 聴牌の攣化 (Bと密接な関係がある項目である)

 麻雀の妙味は、殆ど無関係と思はれる牌を有効に用いる技と、牌勢と場の形勢によって、如何様にも手を変化させる才の応用にある。

 無関係だからと云つて捨てた牌が、後から欲しくなったりそのために折角のチャンスを取り逃がす様な場合に、しばしば遭遇せられる事であらう。それは運がないとあきらめればそれ迄の話だが、結果の悪かつた時丈、すべてを運の罪にするのはあまりに卑劣な態度であつて、いやしくも研究家のとるべき態度ではない。あの時、あれを捨てなかった無難であつたとか、あの時、聴牌を変へてゐたらよかつたとか、後から考へれば種々研究の対象にならざるはない筈である。

 例へば二萬二萬七索八索九索と持って六索九索聴の場合、病牌の七萬を摸したとする。此の場合二萬が安全牌であれば、誰しも二萬を切るのが定石である。処が次の自摸で叉同じ牌を続けて自摸ったとする。当然もう一つの二萬を打って、又元の通り六索九索の聴牌にはなったが他に和られて了ったといふ様な場合がゐる。此の場合に於て考ふ可き事は、若し之が最初に七索八索九索二萬と持つてゐた場合なら、単吊自摸で和り得たのである。

 要するに変化し得べき聴牌をしてゐなかつたため、和る機会を逸したのであるから、手の付かぬ時には一層、斯様な細かい点にまで心を用ふる必要がある。

 そこで独り聴牌の際のみでなく、其の道程に於ても、常に形勢に順応して変化を求めて行かなけれはならぬ事を主張する。共の意味に於て吃、ポンは出きるかぎり之を避け、自撲に依って人に知られざる牌を得て、秘かに変化を求めて変通自在、胸に大望を抱きながら小さい和りをも見逃さぬのが最良の戦法であると信じて居る。

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