ClassicTactics 古典技法論 

     (6)理論的麻雀技法(1)


 これは昭和6年3月、
林茂光麻雀研究所発行の専門誌「麻雀」に掲載された、沼崎雀歩氏の麻雀論。小論ではあるが、早くも昭和初期に数式をもって牌価値の解明に取り組んだ沼崎氏らしい考察に満ちている。


                                                 
  数理を加味せる牌技の一端
    
 何処へ行つてもよく聞く事であるが、「麻雀なんて運だ。その証拠にはへボが上手の間に入って勝つ事があるんだから」、「麻雀に理論なんかあってたまるもんか。俺は実戦派でゆ〈」、又「いや確に技量と云ふものは有るに違ひない。運十とまではゆかなくても技の六七は考へられる」。

 私はその場合、大抵肯定して居る。と云ふのは何れも少しづつ真理を含むと考へるからである。然し一週間でも拾日でも、私がコーチした連中がこんな事を放言したら私は決して肯定しない。それは麻雀に於ける勝敗の論点が何処に存在するかと云ふ事を不識々々の間ではあるが私は注意深く指示する方法を取つて居るからである。

 先きに「大抵肯定して居る」と書いた。この「大抵」の意味は、是を指して居るのである。私に言はせると、唯一つの麻雀の勝敗に封して、数多くの人々が異った数多くの主張を持って居るのは、真の中心とすペき(或ひは綜合的の)論拠を見出し得ないからではなからうかと思つてゐる。

 あんまり適例ではないが、かの『ポートレース』がさうだ。或る一個所に腰を下して『スタート』から『ゴールイン』までを詳細に観察する事は許されない。単に一着二着を知る事のみが必要であるなら、『ゴール』のところへ坐り込んで居れば充分である。しかしより好き戦法とか放れた原因とかを探究する為には、何虚に坐して居ても充分なる條件とはなり得ないであらう。

 『スタート』を見て、直に勝敗を予断するが如きは誰しも不能な事を知って居る。特に曲線路の多い程予想は困難で、『コース』の四分之三を過ぎても、共何れが優勝するか全然想像できない事がある。(ゴールの所では相当大差のものでも)之は『ポートレース』に限ったものでなく、凡ての競技皆然りであるが唯見通しのきかぬ競技である為に此処に例として掲出したまでの事だ。

 『スタート』から『ゴール』まで四、五分かかるのであるから相当冷静なる判断を下す余地はあるのであるが、勝敗の要素とも言ふべきものがあまりりに多いので困難なのではないかと思ふ。(実際の事は、私は専門家でないから知らない事を断つておく)。

 麻雀に於ける勝敗は之に似て居ると思ふ。考へ方は色々あるであらうが私は要素の多いと言ふ事も、運と技との問題を混乱せしめて居る重大原因だと考へて居る。

 然らば、中心論点は何処に存するか、又その数多の要素と称するものを挙げて見ろと言はれると私も困る。が数年の経験と教理的考察とから、何かしら漠然とではあるが掴み得たかに感じて居る。

 和料と満貫、ひいては技の領分を充分大きくするには何程の和料を可とするか、なほ進んでは中張牌の明刻2点に対して老頭牌明刻の4点は果して通常なりや等々の問題は勿論考究すペき問題であるが、此処に一考すべきは当代に於ける大衆の趣味と言ふものである。

 (麻雀の普及と言ふ観点から考へた場合)大衆の趣味、嗜好を無視して規則を作つたとしたら、その規則が如何に理論上無欠のものであつても、無味乾燥なるものになると思ふ。然し乍ら、少しでも斯技の先覚者を以つて任する各位は、之をそのまま放任して置くべきではなく、進んで大衆の歩むべき道を示し、以て益々『スポーツ』化せしむる必要はないだらうか。

 斯る見地から考へると、少くとも運の領分より技の領分を過大にせなければ到底目的は貫徹出来ないと考へられる。現在の日本麻雀界を見るのに遺憾乍ら、此方面へは留意が足らないようだ。

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