【 観用少女りん 2 】
殺生丸の屋敷は、屋敷自体の造りは豪奢で庭も温室も良く手入れされた立派な物だが、
住んでいる者の心根の冷たさを反映してか、どこかひんやりとした印象を感じさせていた。通いのメイドが屋敷の清掃を終えると、訪ねてくる客もいないまま屋敷の一日はほぼ終る。たまに帰宅する殺生丸とそんな通いの使用人の食事を用意する料理長と執事の邪見、それから庭番の老爺とメイド頭の老女だけが普段のこの屋敷の住人。華やかさや明るさとは無縁な屋敷である。
しかし、ご母堂がりんを連れ帰った日から、殺生丸の屋敷に今までと違う空気が流れ始めた。派手やかなご母堂の滞在で屋敷全体が華やいだ空気に包まれ、屋敷全体にどこか甘い香りと新緑のような香りが漂う。屋敷や庭や温室が息を吹き返したような、そんな印象を邪見たちは覚えた。
ご母堂とプランツのりんは、傍目で見るととても不釣合いに見えた。かたやこの世の豪華さ全てを従えたような大美女であり、こなたその辺りの町娘のような貧弱な風情。そんな貧弱ささえ感じさせるりんに、ご母堂は甲斐甲斐しく世話を焼く。
それこそが邪見には信じられない事のように思えた。邪見がまだ本国のお屋敷にいた頃、生まれて間もない殺生丸の世話をするどころか、乳を与えるのも専属の乳母を雇い、自分は夜毎日毎社交界を華麗に泳ぎ回っていたのだ。若い恋人と屋敷を留守にしてバカンスに出かける事も日常茶飯事、邪見が知る限り殺生丸の幼い時期にこの両親と家族らしい交流がどのくらいあっただろうかと、思い出すのも難しい程であった。
殺生丸があんな性格になったのも無理からぬ事、と邪見も良く判っていた。
それなのに血も通わぬ、ましてや「ヒト」でもない者の髪を梳り、毎日風呂に入れ清潔な綺麗なドレスに着替えさせ、日に三度ミルクを飲ませる。話しかけ寝かしつけ、どこに出かけるときも一緒。女とはご母堂様ほどの方であっても、いくつになっても人形遊びが好きなものなのかと、男である邪見にはいささか不可解ですらあった。この事を殺生丸に知らせたものかどうかと邪見は考えたが、知らせればこの穏やかな時間が終りそうな気がして、躊躇ったまま日にちだけが過ぎていた。
「りんや、ミルクの温度は熱くはないか?」
プランツゆえに話すことは出来ないりんが、はっきり首を縦に振る。熱すぎて飲めないと、その仕草できちんと伝える。
「そうか。猫舌かりんは。どれ、冷ましてやろう」
ご母堂が、その艶やかな唇をすぼめてまるで子どものようにミルクの入ったカップを吹き冷ます。
「うん? 今度はどうじゃ?」
手渡したカップのミルクの温度を確かめ、りんが頷く。その様子にご母堂は小さく微笑む。控え目だが物怖じしないりんの振る舞いが、ご母堂の前で卑屈にへりくだって振舞う者達の浅ましさと対照的で好ましく思えた。
「不思議なものじゃな。お前は喋りも私の機嫌を取る事もないのに、お前が側にいるだけで心が柔らかくなるような気がする」
ご母堂の言葉に、りんがじっとご母堂の顔を見つめた。最初出会った時に惹きつけられた、あの濡れた様な黒い大きな瞳で。そこには、ありのままの今のご母堂の姿が映っている。らしくもない自分をそのまま受け入れてくれた、りんの瞳。
「お前の前なら、飾る事も無いのかも知れぬな。はは、こんな事を言うのも、少し疲れているのだろう」
その言葉に、りんの表情が少し曇ったような気がした。
「お前は優しいな。いや、心配はいらぬ。ただ、近々大きな決断をせねばなるまい。その前に今までの自分の在り様を思うと、なぜかあれの顔を無性に見たくなったのだ」
語る言葉も無いままに、りんが不思議そうな色を瞳に浮かべて問いかける。
「ああ、あまりにもあれを構わなさ過ぎたからのぅ。すまんな、りん。お前のことは半分はここを訪れる為の方便じゃ」
小首を傾げたような仕草が、ご母堂には話の先を促しているように感じられた。物言わぬプランツのりんだからこそ、ご母堂も語る事ができたのだろう。
「若さに任せて、自分の生きたい様に生きてきた。むろん、あれへの愛情はある。しかし、それがいつも側にいてやる事だとは思ってはいなかった。私も事業を持っていたし、夫の闘牙はそれ以上に世界を駆け回っていた」
真っ直ぐな瞳で、りんがご母堂の顔を見る。
「父母が不在な分、あれには何不自由の無い生活をさせたつもりじゃ。厳しくしつけてくれる家庭教師も、心を込めて世話をする乳母やメイドや執事もつけた。必要であれば、どんな助力も惜しまぬ。でもな……」
言葉を切り、微笑むご母堂の顔には間違いなく悔いの色が浮かんでいた。
「どうやらあれには嫌われているようじゃ。過ぎてしまった時は戻らぬ。あれのあったかも知れぬ幼い笑顔を知らずに、ここまで来てしまった。大切な時を私は永遠に失ってしまったのだろうな」
プランツのりんには、この母子にどんな経緯や確執があったのかは判らない。ただ、この目の前にいる美しい人は、今、とても寂しいのだとりんは感じた。寂しさや哀しみはりんにも良く判る。りんもやっぱりそうだから。りんに出来る事は、ただその思いを受け止め、わずかに微笑むだけ。
「りん、お前は私の側に居てくれるか?」
ご母堂の言葉にりんが頷く。あの店で、ご母堂と眼があった時に感じたものはこれ。だからりんはご母堂について行くことにした。どうしてそう思ったのかは、りんに解らなかったけれども。
「そうか、居てくれるか。ならば、お前を私の『娘』にする為の正式の手続きを取らねばな」
「 ―――― ?」
意味が判らず、りんは首を傾げた。
「まだお前の代金を支払ってないからな。それに私の娘になるのなら、まだ色々買い足したいものもある」
ふっと垣間見せた寂しさは跡形もなく消えうせ、ご母堂は女性特有の買い物への娯楽性を楽しむ気持ちに切り替えていた。車の用意をさせるとご母堂は、りんをともない再びあの骨董店を訪ねた。
骨董店の店主はご母堂とりんの表情を見て、この二人がここを訪れた訳を理解した。
「どうなる事かと思いましたが、相性が合ったようですね」
「ああ、本当にりんは良い子じゃ。ぜひ私の手元に置きたい」
「判りました。ではりんのお値段は先日も申しましたように少し勉強させていただいて、この位になりますが」
と、短冊に毛筆でサラサラと値段を書き付ける。
「異存はない。あとりんの着替えや身の回りの物やミルクなども買って帰りたいのだが」
「それではどうぞ、こちらで心行くまでお選び下さい」
ご母堂を上得意と判断した店主が、それはもうにっこりと見惚れそうな笑顔を湛えてプランツ用の用品関係を集めた特別室に二人を案内した。りんがその豪華さに眼を見開いている横で、ご母堂は展示された商品の上のランクから次々と買い込んでゆく。
「お持ち帰りなさいますか? それともご自宅までお届けに上がりましょうか?」
「車で来ているから、そこまで運んでもらえればよい」
「承知いたしました。では」
ほくほく顔の店主がご母堂の選んだ商品を、表通りに待たせている車まで何往復もして運び込む。今回のお買い上げ金額はプランツ本体の価格も加わりそれこそ高額になることだろう。最後の商品を運び込んだ所で、ご母堂がりんを伴って車の側まで近付いてきた。
「積み込みは終ったのか?」
「はい、只今終えました。店に戻り前回の分も合わせてお勘定を致しますので、もう暫くお待ち下さい」
「いや、これを渡しておく。金額はそちらで書き込んでくれ。あとで領収書と明細を送ってもらえれば良い」
ご母堂は白紙の香港上海銀行の小切手を店主に渡した。
「……間違いがあってはなりません。どうか金額をお確かめになってから、数字をご記入の上渡してください」
「店主、私はお前を信頼している。小切手の金額と明細・領収書の金額が合ってさえいれば問題はない」
「そうですか。では明細書と領収書はどちらにお届けに上がれば……」
「際狛有限公司のオーナーの屋敷に。では、また」
ご母堂とりんを見送る店主。その口元には、意味深な笑みが浮かんでいた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
ご母堂が殺生丸の屋敷をホテル替わりにしたために、もともとあまり屋敷に帰宅しなかった殺生丸はもっと屋敷に帰る事をしなくなっていた。そんな殺生丸が怒りも露わに屋敷に戻ったのは、ご母堂が滞在し始めて半月程が過ぎた頃、手違いで屋敷に直送されるはずの請求書がなぜか自分の事務所に送られて来たのがきっかけ。
その請求書に書き込まれた金額と明細の有り得なさに、自分の屋敷に起こっている異変を感じたからだった。
「邪見!」
玄関ホールで一声、そう呼び付ける。
「は、はい! 殺生丸様っっ!!」
長年仕えて来たのは伊達ではない。その一声に込められた我が主の不機嫌さは、出来れば目にしたくない近付きたくないレベルにまで高められていた。
「あれはどこだ」
「あ、あれとは…。それはあまりな仰りよう。殺生丸様の母君であらせられますぞ」
「母? あれが母なら、野良猫の母猫でさえ聖母だな」
「殺生丸様……」
「どこだ、邪見」
「は、あのぅ、南側の温室の隣のお部屋を使っておられますので、今時分はおそらくその温室の方かと ―― 」
殺生丸の怒気に、邪見は青くなりながらそう答えた。
母の金遣いの事を殺生丸は怒っている訳ではなかった。ただ自分から見て不要だと思うような物を自分の屋敷に溢れさせる事が我慢できなかったのだ。また明細の内容に多少不可解な点があり、それが殺生丸に一抹の疑念を抱かせていたこともある。
最上の物しか身の回りに置かない母であれば、ここに滞在中の買い物もそれ相応の物になるのは判っている。しかし、自分が手にした明細にはおよそ母の物ではないだろうと思われる物品が多数明記されていたのだ。幼児用サイズの毛皮のコートや最高級の絹のドレスに花帽子に靴などが何点もあり、下着やアクセサリー・リボンなどはそれこそ多数。コロンにしても、まるで石鹸のような子どもっぽい香りは明らかにあの母の趣味ではない。それとは別にむやみやたらと高いミルクや砂糖菓子の請求も入っている。そう、それはまるで今から幼い子どもを育てる為のもののように。
本国の父の事もある。自由奔放を体現しているようなこの母であれば、自分の知らない間に母の隠し子が一人や二人いても別に驚きはしない。しかし、そんな者を自分の屋敷に置く事だけは虫唾が走る。
そんな事を考えながら殺生丸は、邪見に言われた温室を目指す。温室のガラス扉に手をかけ、中を見れば生い茂る珍しい植物や樹木の葉の陰に母の姿。手にしたガラスの器から薄桃色の何かをつまみ、それを葉の陰に隠れて良くは見えない相手に食べさせているように察した。
その時の、母の表情! いつも女王のように若い男達にかしずかれ、傲慢なまでの美貌と笑みを浮かべていた母とはとても思えない程の柔らかな笑み。自分には向けられたことの無いその表情。
ざらっとした心の動きを抑え、温室の扉を開き中に入る。温室の中は花と緑とどこか乳臭い甘い匂いが漂っていた。葉の陰に遮られていたその相手を目にし、軽い蔑笑すら浮かびそうになる。黒い髪黒い瞳、こじんまりとした東洋人めいたその容貌。
「……母上、あなたもか。父上と同じような趣味をされている。父上の愛人は東洋の貴族の姫と聞いたが」
「殺生丸……」
「邪見に口止めしたのも母上か」
冷徹な響きを含ませ、氷のような冷たい視線で殺生丸はりんを見た。
「―― 口止めも何もしてはおらぬわ。しかし、お前のその口ぶりは……」
ほぅ、と大きくご母堂は溜息をついた。
「お前も邪見と同じか。お前の眼にもりんは私の隠し子に見えるのじゃな」
「そうでないと言われるか。ではペット代わりにこの娘を飼うおつもりか。いくら貴女でも親がいる娘を勝手に屋敷に連れて来ることはあるまい。哀れな孤児を育てる慈善家の真似とは酔狂な事だ」
あまりな物言いに、今度は軽くご母堂はめまいがする。
「よくもまぁ、そこまで斜な物の見方が出来るものよ。お前もここに滞在して長いのであれば、
【観用少女】の名くらいは聞いた事があろう?」
「【観用少女】? ああ、あの馬鹿げた貴族趣味の……。ならばペットを飼うよりも始末が悪い」
殺生丸も
【観用少女】の事は聞いて知っている。とても愛らしく、その笑顔を見たものは一目で虜になると言う。決して安くは無い人形本体の代金もさることながら、育てるのに必要な諸経費も馬鹿にならず、よほどの資産家で物好きでないと手を出さないシロモノ。
「ペットと同じにするな。りんは良い子じゃぞ。ちゃんと自分の身の回りの事は出来るし、煩く吼え立てることもせぬ。何よりも愛らしいではないか」
「それでもたかが人形。母上も馬鹿らしい遊びは早々にやめられるがよい」
険悪な雰囲気の中、りんはじっと殺生丸を見ていた。自分がいるから、この人は苛ついているのだろうか? それとも本当にこのご母堂が嫌いだから、側にいる自分にもこんな冷たい言葉を投げつけるのだろうか。
そう、りんは見ていた。殺生丸が温室に入って来た時の表情を。苛立ちと怒りの陰に仄見えた疎外感のようなものを。その視線に殺生丸が気付く。
「……何か言いたげな目だな。言いたい事があれば、言え」
「無茶を言うな、プランツは口が利けぬ。ただそこにあって、見るものを癒すのみ」
「癒す? ああ、あの天使の微笑みとかいうやつか。それにしては、この人形は少しも笑わないな」
「りんは少し事情があってな……。それでも、最近は柔らかな表情をすることもあるぞ」
ご母堂の話を聞き流し、殺生丸はりんの前に顔を近づけた。その表情に浮かぶものは明らかな侮蔑。視線には冷たい棘を含んでいる。
「
【観用少女】は笑う事しか能がない。噂に聞くほどのものならば、私の前でも笑ってみせろ」
殺生丸の物言いに、りんは怒ると言うよりも呆れた。この人間は一体何を言っているのだろう? こんな者の為に、ご母堂は心を痛めているのだろうか。僅かにりんの眉根が寄り、不快気な表情を浮かべる。
「いやか? 生意気なことだな」
「殺生丸……」
ご母堂は自分の殺生丸に対する接し方がここまで間違っていたのかと、胸に抱いた悔いを深める。りんの殺生丸を見る瞳の色が強さを増している。ご母堂が最初にりんに感じた、もともとの気性が目覚め始めていた。
「ふん。まぁ、母上が本国に戻られるまでの間と我慢しよう。その代わり、ここを立ち去る時には、綺麗に一切合財片付けてから行かれるように」
大きな溝を感じさせる冷静で拒絶感に満ちた声でそう言うと、殺生丸は温室の扉を閉めて出て行った。りんは軽い憤りを覚えて、その後ろ姿を睨み付ける。ご母堂がそっとりんの肩に手を置いた。
「……本当に済まぬ、嫌な思いをしたであろう。もう、あれは無理かも知れぬな――――」
「――――――」
言葉を持たぬりんからの、ご母堂への問い掛け。
「あれはもう、誰も愛さぬだろう。そして誰からも愛される事もない。どこまでも
孤独のまま生きてゆく。私たちのせいで」
小さく言葉を零したご母堂。その響きがりんの胸に沁み、りんは自分からご母堂の手を握り返した。りんはプランツだから人間の体温のようなものはない。伝わるのはその場の空気の暖かさ。それでもりんの手は、温室の空気より温かく感じられた。
「心を閉ざしたお前も、今はそうかも知れぬ。だけど、本当のお前はそうではない。だからせめてお前だけは、誰からも愛されるような者になっておくれ。お前の笑顔にはそれだけの力があるのだから」
その言葉を聞かせたいのは、本当は自分にではなく自分と同じ陰を持っているあの人にだろうとりんは思っていた。誰もが
【観用少女】の笑顔を褒め称える。りんを育ててくれた名人も、りんの笑顔が好きだと言ってくれていた。そう言ってくれたから、りんも自分の笑顔を好きだと思っていた。でも、今はあの頃のように笑えない。
りんの目の前で頭を殴られ倒れた名人。りんに伸びようとした強盗の手を、それでも必死に防ぎ何度倒され足蹴にされても、犯人の体から手を離さなかった名人。その騒ぎで近くの住人が駆けつけてくるまで。
あの時聞いた言葉が、忘れられない。
( ああ、この人形目当ての強盗か。正規に買うには高価すぎて手が出ないからな )
( 天使の微笑みとか言うけどさ、それで財産無くしたり強盗にあったりしたんじゃ、とんだ疫病神だ )
( 本当、普通の人形ならこの爺さんも死なずにすんだものを )
自分はそんな存在。
そう思ってしまった時から、りんは笑う事を止めた。
でも、と思う。
今なら、りんが笑ったらご母堂様が喜んでくれるかもと。りんの事をこんなにも大事に思ってくれるご母堂様に喜んでもらいたい気持ちが、りんの凍てついていた心を溶かし始めていた。
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もともと野の花らしい逞しさを持っていたりんである。本根の強い真っ直ぐな気性は、りんを歪なモノになることをさせなかった。殺生丸が訪ねてきた日から、少しずつぎこちなくはあるが、りんはご母堂に笑顔を見せるようになっていた。それは肌寒い早春の、野にあるひな菊の蕾が少しずつ開く様にも似て、それを見てご母堂の胸の中の憂さも少しずつ軽くなるようだった。
そんな二人の変化は、屋敷の雰囲気をさらに変えた。温室や庭のベンチの側、または食堂で仲の良い母娘のような二人を見ていると、温かいものを感じずにはいられない。
食器を下げに行ったメイドに自分からカップを手渡した時の、ちょっとした笑顔が可愛かったとか、廊下などで眼が合った時のおじぎの仕草が上品だとか、屋敷のあちらこちらに出没して見つかるたびに、悪戯っぽく笑うあの瞳には敵わないとか。
目にする場面場面にりんの飾り気のない無垢な笑顔が添えられて、その笑顔に触発されて笑顔の輪が広がってゆく。四季のない屋敷の中の空気がやっと動き始めたようなそんな感じを、屋敷に勤めている者達は実感していた。
しかし、突然冬に逆戻りするような時もある。りんも時折突き刺すような視線を感じる。ご母堂の滞在が気になるのか、
【観用少女】と戯れる愚行が忌まわしいのか、以前のように四・五日おきに殺生丸は屋敷に様子を見に帰ってきていた。その度に、冷たい金色の瞳でりんとご母堂を見るのだ。そしてりんも黒い大きな瞳で、怖気もせずに睨み返す。りんの態度はまるでご母堂を守るかのようで、微妙な緊張感が漂っていた。。
今もまた、庭にいた二人はリビングのポーチから嫌悪感も露わな見下した視線に晒されていた。白銀の髪、金の瞳。どこまでも高慢で冷淡な面持ちのままで。
「りん……」
殺生丸がすっと二人の前から姿を消すと、ご母堂が溜息のような声でりんの名を呼んだ。りんはご母堂の手をぎゅっと力を込めて握り締め、大丈夫だと心配しないでと伝えた。
「邪見!」
「は、はい! 殺生丸様っっ!」
自室に戻るなり、殺生丸はそう邪見を呼びつける。
「あれはまだここに居座るつもりなのか」
「居座るって、ご母堂様がこんなに長く殺生丸様のお近くに滞在なさるのは珍しい事です。何か、お心に思うことでもおありなのでは?」
「はっ、今更何を思う? あんなくだらぬ人形遊びに興じているだけではないか」
「いえ、お言葉ですが……。
【観用少女】と暮らすのは初めてですが、あれはとても人形とは思えません。なんと言うか、欲しいという気持ちになるのも判るような気がします」
しどろもどろでそう言った後、あの凍て殺されそうな冷たい視線に曝された邪見は、小さくなって口をつぐんだ。
「お前まで、あんな人形に誑かされたのか」
「殺生丸様……」
入用な物だけ手早く用意し、出かける準備をしている殺生丸は、言い捨てるように邪見に主としての命令を与えた。
「しばらくは、ここには戻らぬ。その代わり、その日にあったことは逐一お前が報告に来い。特に母上への連絡などがあればすぐに知らせろ」
「はい、承知いたしました」
冷たい物言いは常ではあるが、それにしてもいつもと違うように感じるのは、それだけ長く邪見が殺生丸の側に仕えてきたからだろう。
「あの…、何かあるのでしょうか?」
おずおずと尋ねる邪見の顔を見、殺生丸はいつもより険しい表情を見せた。
「いよいよこの東の果てにも、大嵐のうねりが押し寄せてきたと言う事だ」
「大嵐?」
「本来なら母上が本国を離れるなど、あってはならぬことなのだがな」
「そ、それはどう言う事なのでしょう」
いまここで詳しく説明する気もない殺生丸。ただ一言、言い捨てる。
「もとより夫婦らしい夫婦ではなかったからな。夫が破産者になって野垂れ死にしようと、ああやって自分は高価な人形遊びに耽っている方が楽しいのだろう」
じわりと押し寄せてきつつある恐慌の波から、殺生丸は自分の起こした事業を守る経営者の顔をして自室を出て行った。
殺生丸と邪見がそんな会話を交わして二・三日後、ご母堂に本国よりかかってきた一本の電話が事態を急変させた。その電話をご母堂に取り次いだ邪見は、ご母堂の出方をじっと見ている。
「……そうか。今動かねば、後がない。判った、急ぎそちらに戻ろう。いや、闘牙が謝る事はない。お前が言ってくれればいつでもその心積もりは出来ていた。言ってくれるかくれないか、それとも私の方から言うべきか、それを迷っていた」
時間にすれば短い本国からの電話。その電話を切った後のご母堂の表情は、女経営者としてのそれだった。
「邪見! 済まぬが急ぎ本国に戻る事になった。ここから一番早いイスタンブールまでの鉄道の手配を頼む。来る時はイスタンブールの港から客船で来たからな」
「上海からイスタンブールまでとなりますと、かなり乗り継ぎが多くなりますが」
「構わぬ。早ければ早いほど良い。強行軍は承知の上じゃ」
「判りました。それでは直ぐにでも手配して参ります」
ご母堂のただならぬさに、邪見は屋敷を飛び出した。りんも不安気な瞳でご母堂を見つめている。
「……急ぎの旅じゃ。りんはここで待っていておくれ」
「――――――」
りんの不安は更に大きくなる。そんなりんの顔をじっと見つめご母堂は、静かに力強く言葉をかけた。
「必ず戻ってくる。だからお前は何も心配せずとも良い」
人間ではないりんにも、何か大きな黒いものが覆いかぶさろうとしているような気がしていた。ご母堂に頼まれた旅券の手配の帰りに邪見は、殺生丸のオフィスを訪ね本国の闘牙から電話があった事、それを受け急ぎご母堂が本国に戻る事になった事を伝えた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「母上、本国にお戻りとか」
今まさに屋敷を出ようとしていたご母堂の前に、殺生丸が現れる。その声の調子、表情には明らかに母を軽視している感情が滲んでいた。
「ああ、ここでもう少しゆっくりしていたかったがな」
「父上は、なんと言っておられた」
「何も…。ただ、済まぬと」
本国への帰路の険しさを暗喩するように、ご母堂の旅装も上海に来たときと大きく様変わりし、結い上げた髪は後ろに一つに束ね、動きやすさを第一に殺生丸のクローゼットから何点か借り受けた男装姿だった。そんな姿であってもご母堂の気品が損なわれる事はない。
「なりふり構わぬ、か。父上は母上の事など省みる事もなかったのに、それでもそうやって駆けつけられるのか」
「……私もそうだったな。お前の事を構う事もせずに、自分の生きたいように振舞ってきた。自分がそうだったから、闘牙の生き方も分かり合えた」
「都合の良い話だ」
「そして、我がままだったのだ。私も闘牙も。事業が面白くて世界を飛び回ることに夢中になった。闘牙が金融業を、私が流通業を。共に世界一になろうと。その上で、惚れた男の子まで欲しいと望んでしまった」
真っ直ぐな視線を向けてご母堂が、殺生丸を見つめた。
「判ってはもらえぬかも知れぬが、闘牙も私もお互いを裏切ったとか裏切られたとは一度も思った事はない。その時、その時お互いの傍らに違う男や女がいても、それとこれはまた別の話」
「………………」
「お前に取ってはひどい親であったな。私がここを出たら、それ以降まるっきりの無関係と何かあっても突っぱねるのじゃ。お前に迷惑はかけたくない」
「母上……」
「……済まぬ。殺生丸」
殺生丸の胸の中で、ざわざわと騒ぐものがある。
「父上の銀行を助ける為に、ご自分の財産をつぎ込むおつもりか!」
「ああ、そうだ。私の全ての力で闘牙を支える」
「馬鹿なっ! 崩壊し始めている今の金融界にいくら母上が莫大な資産を持っているといえ、支えきれるものではないだろう!!」
すっと、ご母堂の姿が大きくなったような気がした。
「殺生丸。支えるのは闘牙の銀行ではない。闘牙の元に集まっている、その顧客こそを支えるのだ」
「なに?」
「先の取り付け騒ぎで金を流通させるはずの銀行が流通させなくなってしまった。口座に残高があっても引き出せず、物があっても買えぬ有様。物が動かねば、体の中の血液が巡らぬのと同じ、末端から壊死してゆく。大方は本体を守るため、その末端部分を最初に切り捨てて行くのだ」
「…………………」
「必要としている所に必要なだけ金を流してやれば、またそこから流通が始まる。その当たり前の事をするだけだ」
「……貸し付けて、回収出来なくなったら? 今の時期、そんな真似は自分の肉を切り分けてハイエナの群れに投げ込むようなものだ」
「それでも、誰かがやらねばならぬ」
毅然としたその姿勢は、指導者としての矜持に満ちていた。
「末端を救うために、討ち死にを覚悟ですか」
「……死にせぬ。そんな事になれば、りんとの約束も果たせぬ」
「りん? この期に及んでもまだ、そんな戯言を……」
ご母堂が小さく笑う。
「あれは、殺生丸。私に取ってのお前だ」
そんな言葉を残し、ご母堂は少し丈の長いトレンチコートの襟を合わせ屋敷を後にした。
3へ続く
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