【 Petshop 2 】
閉店時間でもないのに人気のない店内に、受話器を置く音だけが静かに響く。その静けさの中、押し殺したような笑い声。それも珍しく本当に楽しげに。
「ねぇねぇ、伯爵〜。今の電話、どこにかけたの?」
ふわふわ巻き毛にアンティークドールのような衣装を纏った七・八歳くらいに見える少女が伯爵の服の裾を引く。
「な〜んか楽しそうだな。さっきの客と関係あるのか?」
生意気な口を利きながら伯爵の横から切れた電話と伯爵の顔を見比べているのは、中東あたりの衣装を身に着け、黒髪の間から曲角を覗かせた十三・四歳くらいの少年。見るものが見ればそう見えるが、そうでない者の眼には伯爵の足元と脇にいるのはただのアライグマと珍種の羊の仲間にしか見えない動物。
「うん? 先ほどのお客様が忘れ物をされていたので、そのお知らせを。ポンちゃん、後で小型の水槽を出して置いてくださいな」
「お知らせって、それだけじゃないだろ? 伯爵がそんな風に笑っている時って、なんか企んでいる時なんだよな」
「おや、よくお見通しで。まぁ、そう短い付き合いでもありませんしね」
「ふん、俺も伯爵の口に乗せられた一人だし。あの時伯爵に出会ってなかったら、今でも俺は世界中を旅しながら天才料理人としてヒトを食いまくってただろうな」
「人食いの妖獣、饕餮(とうてつ)らしい言葉ですね。しかし近頃の人間は汚染されてますからねぇ、下手に食べるとお腹壊しますよ」
店内にざわりとした気が蠢く。伯爵の唇に妖艶な笑みが浮かぶ。
「テッちゃん、そのうちご馳走しますから、それまでは松坂牛ででも我慢しておいてくださいな」
「なぁ電話の相手って、あのチビやジーさんじゃないだろ? 誰なんだよ? そいつも俺たちと同類なのか」
「そう…、同類と言えば言えるかもですね。久しぶりに聞きましたよ、あんなにも体の芯にぞくぞく響く獣の声は。由緒正しい血統の、高貴な獣というのは間違いなさそうです」
「それもここの仲間になるの?」
くりっとした目でポンちゃんが訊ねる。
「そうしたいんですけどねぇ…。何はともあれ、お目通りしない事には話は先に進みません。それはそれとして、ちゃんとお仕事もしておかないとですね」
「仕事って、本当に双頭の飛竜をあの小娘に売るつもりなのか?」
「ええ、それはこの店の名にかけても! 竜神の長に渡りをつけてもらったところ、それらしき竜がいるとのことでしたので、後で様子を見に行こうと思っています」
こーゆーところはプロとしての意地を見せる。ペットショップ・オーナーとしての動物の扱いと、スイーツへのあくなき欲求だけは他の誰にも引けはとらない。そんな伯爵の目の前をすっと一枚の木の葉が横切った。それを手にしたのは天狐の天ちゃん。木の葉の面を見ると、伺いを立てるように伯爵の顔を見る。
「どうしました、天ちゃん?」
「あー、その、丁度その三日後に俺の知り合いが遊びに来るって今知らせが来たんだ。なんか取り込み中になりそうだから、日にちを変えてもらったほうがいいかな?」
「ああ、木の葉郵便。ちょっと拝見させてもらいますよ。ん〜、でもこの後となると先方も忙しい時期になりそうですね。まぁ、構わないでしょう。この店内は結構広いですから」
ざわざわとした気は消え去る事無く、そのまま店の片隅や家具の影などにわだかまって次の波を待ち受けているようだった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「殺生丸様、今のお電話は……」
恐る恐るりんが訊ねてみる。元はと言えば自分が言い出したことから始まっている。それにりんはひどく責任を感じていた。
「……何かあの店に忘れてきたものがあるのか」
「えっ、ううん。何も無いと思うけど……」
「ふ…ん、探りのつもりか。邪見、確かにお前の言う通り胡散臭い奴のようだな」
「殺生丸様……」
しばらく考え込んでいたようだが、ソファに無造作においていた上着を取ると立ち上がり居間を出てゆく。
「殺生丸様、どちらへっ!?」
慌てて後を追うように邪見が小走りで追いかけてくる。
「お前は屋敷に残っていろ。私が直々にその男を検分してやる」
「殺生丸様お一人で!? 相手は得体の知れない中国人ですぞっっ!!」
「構わん。……得体の知れなさなら、私も十分その域だろう。危険だと思えば、その場で始末してくるまでだ」
「殺生丸様! 伯爵は悪い人ではありません!! そんな事は仰らないでっっ!」
知らぬうちに、火に油を注ぐような事を言っている。今も昔も想う気持ちに変わりはないのに、それでもまだ男心を理解するにはりんは幼すぎた。
「邪見! 私が戻るまでりんを屋敷から一歩も出すな!!」
深く考えるよりも直感で動く事の方が多い。その性格が生き馬の眼をくり抜くような変動激しい株の世界で、確実に財をなす投資家としての利点になっていた。仕手戦を仕掛けるわけではないのだが、殺生丸が投資する株は必ず上がる。株取引のインサイダー達の間では、殺生丸の動向は常にマークされていた。西の空に残る夕日の色が暮色に染まる中、殺生丸は自分で愛車を運転し歌舞伎町へと向かった。
夕暮れがますますその色を深める中、ネオンの華が咲きその華に集うきらびやかな蝶のような輩を横目に、邪見に聞いていたその商業ビルを目指す。これからが、本来のこの街が目覚める時間。新中華街ビルの地下駐車場に車を止め、まっすぐ十三階のその店を目指す。相手がどんなモノであろうと、引く気などこれっぽっちもない殺生丸であった。
客も途切れ、一服していた伯爵の手がぴくりと反応する。店の動物達も近付いてくる気配に今までにない警戒心を露わにし、あるものは自分の巣にこもり、あるものは恐ろしさと敵愾心で体を膨らませ、そして明らかに敵対せんと牙を剥いて待ち構えるものもある。
「伯爵……」
グルグルと喉を鳴らし饕餮が本性を現す。他にも豹や大蛇なども威嚇の唸りを上げているが、こちらはどこか怖れの色が滲んでいた。
「これはお早いお出ましですね。ああ、皆さん。何もあちら様はここに殴り込みをかけに来たわけではないでしょう。私の事でしたら大丈夫です。どうか皆さんは扉の向こうで待っていてください」
「でも…、伯爵。この『気』はただものじゃないよ。伯爵になにかあったら、私……」
「ありがとう、ポンちゃん。ポンちゃんは他の小さな子達の面倒を見てあげてくださいね。ここまでの大物ですと、気中りで死んでしまう子も出てしまうかもしれませんから」
動物が地震や天災を察知する事があるように、その場もその状況を見事に再現していた。店の動物達を皆扉の向こうに避難させ、一人伯爵は殺生丸の訪れを待ち受ける。店の扉はノックされる事もなく、突然大きく開け放たれた。それと同時に物凄い妖気と覇気が伯爵の全身に叩きつけられる。
伯爵の眼にはその姿は、あたりの空間を圧倒する巨大な妖犬…『狛』の姿であった。獣共通の金の眸はどこまでも澄み切り猛く、巨躯を覆う白銀の毛並みは人の踏み込む事を許さぬ急峻な霊峰の処女雪のように厳しくも清浄な煌き。額に頂く月の紋章は、大いなる天からの加護すら受けている身だと知らしめる。伯爵は一目で魅せられ、うやうやしく臣下の礼をとり跪き頭を垂れた。
「お初にお目文字いたします。この度はこのような場所にお呼び立て申し上げ、誠に申し訳ありません、殺生丸様… いえ、狛の若君」
殺生丸の眸が剣呑な光を帯びて、ぎらりと伯爵を睨みつける。
「お前の眼には、私の姿がどう映っている」
「はい、それはもう立派な狛犬のお姿で…。齢も五百年を下りますまい。既に神位にあってもおかしくないお方かと存じます」
言葉こそ丁寧であるが、右目にかかる黒髪越しの金の瞳が恐れ気もなく殺生丸の姿を映していた。
「……胡散臭い奴だ。お前も『ヒトでないモノ』だな」
「いえいえ、私はまだこれでもヒトの分際なのです。あなた方のような存在の前にただひれ伏すばかりです」
「口先だけであれば、なんとでも言えるな」
「まぁ、これは手厳しい」
そんな火花が散りそうな言葉を交わしながら、殺生丸は素早く店内の様子を観察していた。奥の扉の存在が気になるが、今のところ阿吽らしい動物の気配どころか普通の動物達の姿も見えない。
「見たところ商品らしい動物もいない。何をりんに売りつけるつもりだったのだ」
「お言葉ですが若君、商品… いえ店の子たちは皆、扉の向こうに控えております。ここにはそれこそ普通の小動物もおりますれば、若君の妖気に中てられるものもおりますので」
腰低くそう言いながら、優雅な仕草で殺生丸を店内へと誘った。殺生丸としても、相手の顔を見ただけで帰っては意味はない。伯爵を黙殺するか抹殺するかは、この後の様子次第と考えていた。案内され上座に置かれた一際立派な椅子を勧められる。もてなしの為の茶菓が目の前に並べられた。
「……人間の食い物は口にあわぬ」
下座に座った伯爵が、そんな殺生丸の態度にも臆する事無くティーカップを手に取り口元に運ぶ。そして ――――
「ですが、人間の少女はお気に召したと―― 」
「お前……」
殺気が冷たい風となって伯爵に吹きつける。
「業の深い事です。あのお嬢様は『前世憑き』ではありませんか。前世で何があったか、詮索するのは趣味ではありませんが」
そう呟くように言葉を発し、お茶を口にする。
「しかし、その時の執着故に今生で再会したとするならば、また同じ事を繰り返すおつもりですか? 貴方ほどのお方が……」
「……お前に何が判る」
「人は人、妖は妖、神獣なら神獣。種の異なる者同士の交わりは得てして不幸の種になるだけです。現にあの少女は過去世で人としての天寿を全う出来てないではありませんか」
「…………………」
「そして貴方もです。本来あるべき場所から野に下り、人界の波の下に潜んでおられるとはあまりと言えばあまりの在りよう」
かちゃりとカップを置き、正面からその色違いの瞳で殺生丸の顔を見つめた。殺生丸の長らく潜めていた妖爪に毒が滴る。
「私を殺しますか? 構いませんよ、それでも。でもこの後、あなたの長い生の狭間でまたお目にかかる事になるとは思いますが」
「それはどういう意味だ?」
「……因果ですよ、私の。この惑星の生き物全てが絶えてしまったとしても、在り続けなけらばならない私の―― 」
そう言いながら薄く笑ってみせる。それはどこか諦めきったような寂しい表情を浮かべて。今まで殺生丸が見てきた人間の中で、これほど掴みどころのないモノは初めてだった。元は人間の成れの果てな醜い半妖や妖怪などは見てきたが、これほどのモノは。
「お前は本当に、『人間』なのか?」
「……さぁ、どうでしょう? 遥か昔に人間だったのは間違いないようなのですが、それも余りにも遠い記憶に過ぎません。たった一つ身で時の流れを渡ってこられた貴方様に比べれば、この身はそう長いものではありません。それなりに代替わりをしてきておりますので。ですが私の体に流れる血の記憶は、貴方が生きてきた長さにも劣る事はないでしょう」
怖いほどの緊張感。辺りに張り巡らされた緊張の糸は触れればすっぱりとその身を刻みそうなほどに。殺生丸は自分の身にも覚えのある底知れない『孤独』を伯爵の瞳に見る。そしてそれゆえの冷酷さと優しさとを。
「確かにな。お前のその不遜な態度を見ていれば、阿吽を、いや双頭の飛竜をどこからか手に入れてくる事も出来そうだ。今回だけはお前の話に乗ろう。だが、それ以後は一切こちらに関わるな!」
「はい、では保護者の許可も出たと言う事で。私もあのお嬢様を気に入っております。喜ぶ顔が見れるのは、私も嬉しい事です」
「白々しい言葉を……。では、三日後」
これ以上、ここに長居するのはあまりにも気分が悪くなりそうだと殺生丸は判断した。椅子から立ち上がり、そう言い捨てて店から出てゆこうとする。その殺生丸の後姿に伯爵が声をかけた。
「お忘れ物でございます。これを、あのお嬢様に」
差し出されたのはガラスの水槽に入った一匹の金色のカエル。
「この子がとてもお嬢様の事を気に入ったようなのです。お側に置いておけば、何か役に立つ時もあるでしょう」
殺生丸は一目見て、それが猛毒を持つカエルだと見抜いた。
「あれの側に、そんな危険な生き物を置く訳がないだろう」
「危険? これがですか? 貴方様の側の方がよほどあのお嬢様にとっては危険でしょうに。お嬢様はご承知ですよ、毒を持っている生き物がいつでも毒を出すものではないと。それは貴方様の事ではありませんか?」
殺生丸は伯爵が浮かべた薄笑いを物凄い嫌悪の眼で見、荒々しい音を立てて店を出て行った。
「おやおや、なかなかお前の希望は叶いませんねぇ。それでもやっぱり、あのお嬢様のもとに行きたいですか? あの爪にかかってしまうのがオチかもしれませんよ」
年少の者に優しく語り掛けるように伯爵は、水槽の中のカエルに言葉をかけた。
ドンドンと店の扉を叩く音がする。すっと気を取り直して伯爵は扉を開く。
「おや、太子。今日はどんな御用ですか? もうお客様も見えないようですので、早仕舞いしようかと思っていたところなんですよ」
扉の向こうに立っていたのはこのビルの所有者代行総支配人でもあり、裏の顔も持つ上海系財閥の御曹司。なにかと伯爵の胡散臭い動向に眼を光らせ、ことあればこのピルから追い出そうと画策している。
「だ〜か〜らっっ!! このビルでの営業時間は午前十時から午後九時までと言ってるだろう! まだ七時前なのに店を閉めるつもりか、お前は!!」
「まぁまぁ、今に始まったことじゃないですよ? ああ、そうそう。お客様に頼まれた珍種のペットを探しに、今から出掛けようかと」
それもまんざら嘘ではない。とっととこのビルの総支配人を煙に巻いて、竜神の長が見つけてくれた竜を見に行かねば。
「ちょっと待て! 出かける先はネットカフェか!?」
「はぁ? なぜ、そーなるんです?」
「今、ここから出て行った男は伝説の山師と呼ばれている狛小路家の当主だろ! あいつに何を売った? 代金はあいつが持っている情報か? あいつはどの株を買えと言ったんだ!?」
「なに訳の判らないこと言ってるんです? そんな事、私は知りません。株なんて興味はありませんから。インサイダー取引なんて、そんなやましい事はしたくもありませんし」
一言ぐさっと言い捨てて、太子の鼻先でバタンと扉を閉め切った。ふっと手元の水槽を眺め、細く扉を開く。
「なんだ、伯爵。まだ何か言いたいことがあるのか」
「これ、差し上げます。金運を上げてくれるそうですよ。ただし取り扱いには十分注意してくださいね。では」
「あ、おい! 伯爵!!」
再び目の前でバタンと扉を閉めたてた。
ぶつぶつ何か言っている声が段々小さくなり、やがて静けさが戻ってくる。そっと奥の部屋に続く扉がほんの少し開き、その隙間から小さな頭が二つ・三つ覗いていた。
「……もう、ここから出てもいい? 伯爵」
「はい、もう大丈夫ですよ。怖かったでしょう」
扉がもう少し開き、ぴょんとポンちゃんが飛び出してくると伯爵の足元に駆け寄ってきた。その後を天ちゃんとテッちゃんが続く。他の店の子達もそれぞれの持ち場に戻り始めた。
「なんだよ、あれ? あんなデカイ奴、紅竜以外見たことねーぞ!!」
「あんなのが人間の中に紛れているなんて、この国って訳判らん」
まだ全身の毛を逆立てた状態で、口々にそう言う。
「……ここは八百万の神々が坐しめすまほろばの国。この前は迦陵頻伽が街中で女の子たちと共同生活してましたし、神使で守護獣の狛犬が人間のふりをして相場を張るのも有りかもしれませんねぇ」
つんつんと足元でポンちゃんが服の裾を引く。
「あんなに大きかったらあたしたちの居る所がなくなっちゃう。それに今は『人間』のふりをして暮らしてるなら、わざわざここに来なくてもいいよね?」
「狭くなるのは、まぁどうにかするとして…。あの様子ではまず、来てはくれないでしょう。人型の姿も眼を見張る程の美丈夫ですが、あの本来の姿である狛犬姿の素晴らしさ! 惚れ惚れするような毛並みでしたねぇ。あのしなやかな体のラインに強靭な筋肉。是非手に入れたいところですけど、あちらも込み入った事情がありそうですし」」
ほぅと大きく溜息をつく。饕餮を手に入れた時と異なり、それなりに『人間』としての確かな経歴も積んで来ている。しかもあの太子の話では、経済界にも影響を与える存在。いきなりそんな人物が消息不明になるのは拙すぎる。
「時間はあるでしょう。いつか、ここに来て下されれば良いのですから。無理強いをすればその報復にこんなビルの一つや二つ、あの方にとって崩壊させるのは簡単なことでしょうから。そうしたら、私たちはまた新しい場所を探さないといけませんしね」
「じゃ、今はあれが来る事はないのね」
「ええ。取り合えず、今は顔を繋ぐだけで良しとしましょう。ああ、それでもあの毛並み! 是非この手で触れてみたいものですねぇ」
行き場のないはぐれ狛とその眷属(?)であれば、話は簡単だった。しかし、何世代も素性不明なまま人間社会に紛れてきた自分より、遥かに確かな『人』としての痕跡を残して今に至る殺生丸の方がより立場が強い。無理は出来ない、時には引く事も肝要。
( ……それにあの方にとってどんなに大事なお嬢様であっても、人間は必要ありません。前世がどうあれ、お付の方も。私が欲しいのは神使であり守護獣である殺生丸様、貴方ただお一人なのですから )
太子に言った言葉通り出かける準備をし、留守を店の子たちに言いつける。その昔、一緒に過ごした事のある竜を求めたのはあの少女だが、それはまたあの狛の若君の為にもなると空に登った月をみあげながら、そう胸のうちに呟いていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
腹立たしい気分のまま屋敷に戻った殺生丸の剣幕に、オロオロしながら様子を伺う邪見に対し、りんは震えながらも真っ直ぐな瞳で殺生丸を出迎えた。
「殺生丸様、あの……」
言いあぐねているのは、伯爵に手を出したかどうかだろう。今でこそ人間然として生活している殺生丸だがかつては冷酷無慈悲、その名の通り生あるものを殺っするに躊躇することのない妖であった。前世の記憶があるりんは、もちろんその事を知っている。どれほど恐ろしい妖であるか、人である自分とどんなにかけ離れた存在であるか。それを承知で殺生丸の手を取り添うたのだ。その選択が自分の命を削る事になるとどこかで気付いていても、離れる事のできないりんだった。
「……話はつけてきた。お前の希望通り、あの男なら双頭の飛竜を探し出して来るだろう。ただし、それが阿吽であるかどうかの確証はない。お前や邪見の例があるからと、阿吽まで転生していたり、あるいは生き永らえているかは零に近しい可能性だ」
「はい……」
そう、そんなに都合の良い話はないだろう。自分や邪見がこうして殺生丸の元に再び在れる事そのものが、奇跡の中の奇跡なのだから。
「それから、その竜を受け取ったらあの店との付き合いはそれまでだ。今後、二度とあの店に立ち寄る事は許さん」
「殺生丸様……」
「あの男は危険だ。虫が好かぬ」
それだけ言い置くと殺生丸は自室へ引き上げた。
竜神の長への連絡は紫泉公主に貰った水鏡で行えるが、現物は現地にまで行かねば受け取れない。時間も時間であったため、伯爵は店を出るとすぐに駅へと向かった。目的地は紫泉公主の住まいである河童淵。そこから竜の道を開いてもらうつもりでいた。
夜汽車のガラス窓越しに街の明かりが後方へ飛び去って行き、郊外に向かうほどに暖かな家庭の明かりがふっと浮かんでは夜の闇に消えてゆく。線路沿いに明かりが絶える事はなく、ぽつんぽつんとそこだけが明るいのが尚の事、辺りの暗さと侘しさを強調する。
「いつかは消えてゆく光 ―― 」
窓の外の暗さに、鏡のようになったガラスに黒紗をかけたような自分の姿を映して、そして微笑む。変らぬものなどない事を、痛いほどその身に心に刻み込んで。
それでもと、あの狛の主従の事を思う。
変らねばならぬのに、変ろうとはしなかったその繋がり。
その為に、繰り返す悲しみも。
残る悲しみ、残す悲しみ。
共に在る時の、想いの深さが深いほど、それがいつか憎しみに変らぬだろうかと。
執着を断ち切れば、あの少女は人としての天寿を全うし、前世に縛られない生き方が出来るだろうに。妖も本来あるべき場所へ戻る事が出来る。こんな人間の世の塵芥に塗れなくても済むものを。
( 殺生丸様、貴方の側に在れるのは貴方と同じ妖ではないのでしょうか? 貴方があの二人を再び失うその時に、気持ちの縁(よすが)にこの竜がなれば良いのですが…… )
公主の下に着いたのは、もう真夜中。それから竜の道を開いてもらい、長が言うその竜の所まで案内してもらう。
「すみません、先日もお邪魔したばかりですのに」
「いやいや、あの折の挨拶をを交わしただけじゃったからのぅ。此度は少し時間が取れそうじゃな」
「ええ。先方には三日の猶予を貰っていますから」
真っ暗な水の中、ゆらゆらと水の壁が揺らめきその波の狭間に淡い蛍の様な光が薄ぼんやりと灯る。
「しかし物好きじゃの。竜を飼おうという人間がおるとは」
「はい。竜を求めに来たのは普通の人間のお嬢様でした。ただ、その保護者はヒトではありませんでしたが」
「ほぅ、ヒトでないもの…。人間風情に身をやつしている愚か者がいると言う事か? さしもの伯爵も人間界に紛れたモノまでは、よう知らなんだと見えるな」
「ええ。この国に参りましてから、こうして公主を初めやんごとなき方々とも知己の遇を得る幸運に恵まれておりますが、まさかあのような方が… と思うばかりです」
「ほぉ、伯爵の口からそんな言葉を聞こうとは。それはよほどの大物、齢を経て神格化しそうなモノのようじゃな」
「はい。そして、あまりにも長い時間を、その珠玉の珠を求めてたったお一人で人間の世界に潜んでおられたようです 」
一人と言いながら、それは違うと気がつく。自分のような『孤』とは異なり、あの若君の心の中には確実な存在としてあの少女が棲んでいる。だからこそ深まる孤独、だからこそ救われる心。
( ……私には、誰がいるのだろう? 店の子たちや草花や虫たち、位高き神獣や霊獣の方々は私を必要としてくださっているのだろうか? 私もまた……? )
羨ましいのかもしれない。
あの狛の主従が。
「着いたぞ、伯爵」
ふっと物思いに耽っていたところを、その声で引き戻される。公主の指し示す扉を開き、部屋の中へと一歩踏み込む。ゆったりとした暖かな波が幾重にも柔らかな帳のように室内を覆い、その中央の竜の巣に眠る竜の姿。
「眠っているのですか?」
「長の話では、卵から孵って以来、起きた事がないそうじゃ」
「なぜ?」
「それは判らぬ。あの種の竜は雌雄同体、己の天命が尽きる時に次代を繋ぐ卵を産む種。親と寸分違わぬ仔が生まれる」
思わずくすりと、苦い笑みが浮かぶ。
一人で何代もの世代交代劇を演じてきたあの若君よりも、この竜の在り方の方がよほど自分に近いと気付いて。
そっと近付き、眠っている竜にその手を触れる。竜の心の声が伝わってくる。
( ……誰だ。私に触れるものは )
( 初めまして、動物を扱う事を生業と致しております『伯爵D』と申します。あなたを欲しいと仰る方がおりまして )
眠っている竜の耳がほんの僅かぴくりと動く。
( 二君には仕えぬ。私の主人はただお一人、他の誰の元にもゆくつもりはない )
ほぅと、竜の言葉に感嘆の溜息を漏らす。
( それほど忠義篤いあなたが、なぜご主人様の元を離れたのですか? たとえ先代の命が尽きても次代にそのまま受け継がれる種であるあなたなら、そのままご主人様の元に留まる事も出来たでしょうに )
さらに眠っていた竜の、今度は体が身じろいだ。
( それは主の知らぬ事。我ら一族のみの秘儀ゆえに。それに私を遠ざけられたのは、我が主である殺生丸様の思し召し。妖獣である私がなにものにも縛られる事のない生を送る事が出来るようにと )
( つまり、あなたはお暇を出されたと言う事ですね。ああ、あなたを伴っては人間の世界に潜むのは難しいでしょうし、あなた自身の生き辛さも慮られたのですね )
竜の閉じられた瞼が、ぴくりぴくりと痙攣している。
( ……殺生丸様に逆らう事は出来ぬ。仰せに従い残りの生を妖の世界で過ごし終焉を迎えた。そしていつか殺生丸様が迎えにこられるまで、目覚めぬつもりでここにいる )
この竜も、あの少女や老執事と同じ。狛の若君を中心に、何度でも同じ運命を巡るのも厭わぬほど、強く強く結びついているのだ。
( 迎えにこられるまで、あなたはあなたの竜としての生を全うされれば良いのに。どうして自ら眠りにつかれたのか? )
ふっと竜の体から揺らめいた気配は、寂しさ。
( 居らぬから。殺生丸様が愛しんだ人間の娘も、足手まといかも知れぬがそれでも殺生丸様の側に常に居たあの小妖怪も居らぬから。私も何もないと思ったから )
竜に触れた手から、この竜が一番見たいと思っているイメージを流し込んでやる。あの頃とは違ういでたちの、あの懐かしい姿を。
「お迎えに参りました。りん様のご希望をお聞き入れになった殺生丸様の命です。あなたのお世話係だった邪見様もいらっしゃいますよ」
ポゥゥと伯爵の手が触れたところから光と熱が溢れ、阿吽は目覚めた。
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