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【 Arakune 1 】




 夢を見る。
 
 真っ暗な空間にきらりきらりと光る銀の糸。
 それは端がどこに繋がっているかもわからない、巨大な蜘蛛の巣。

 主の居ない、空虚なそれ。
 思わず触れそうになり、はっと気付いてその手を留める。

 自分と闇と蜘蛛の巣と、あとには何もないその空間。
 私の胸に宿るこの虚しさは、空漠たるこの想いは一体なんだろう?


 ……これは、この空虚さは本当に『私』の想いなのか ――――


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 その日は朝から不思議な予感を感じさせる日だった。
 
「これは、何かありそうですね」

 伯爵は店内を見回し、その予感を感じさせるモノの正体を捜す。
 間違いなく今この場に居るはずのそれを捜し、やがて窓の側のカーテンの陰に佇む姿を見つけた。

「これはこれは、玲瓏なるお方。この私にどのようなご用でございましょう?」

 にっこりと笑いかけながら、その手を差し伸べる。
 かさりと伯爵の手に細いものが触れた。

「……そう、そうですか。長い旅の途中で、立ち寄られたと。いえいえ、私に出来ます事ならばお望みにかなうようお力添え致しましょう」

 大事なモノを収めたように、両手を合わせ伯爵は店の奥の通路へと消えていった。



「お待ちしていました、人見社長。この近隣で、手ごろな不動産を幾つかお持ちだと伺いまして」

 旨味のある商談の時には、ひたすら好人物に見える笑顔さえ作る事が出来る。それでも商談相手を自分のテリトリーであるこの新中華街ビルに呼びつけられれば、力関係はこちらの方が上だと太子は腹の内で思っていた。
 太子に人見社長と呼びかけられた男はやせぎすな、五十を幾つか過ぎた年配だった。何代も遡った先祖はこの辺りの有力な士族で、時代を下って大地主から現在は不動産業を営んでいる。もっぱら低中層の集合住宅を何棟も持っていて、そこから入る家賃収入で会社を運営しているがこの不動産不況の折、資金繰りも難しい。お荷物になっている建て替えの時期にさしかかった築年数の古い物件の何棟かを、まとめて太子に売却する話が纏まりつつあったのだ。

「はは、元はこの辺りの地主でしたからな。条件さえ合えばまだまだお売りできますぞ」

 売り急ぐその気配に、太子は人見社長の事業がかなり傾いているのを察した。

「そうですか。では、この取引が終りましたらその他の物件も拝見させて頂きます」

 ゆったりと構え、そう答える。虚勢を張っているようなどこか腰の落ち着かない社長の横には、影の薄い自分より幾つか年下の青年が控えていた。

「おや、そちらの方は社長の秘書の方で?」
「いやいや、恥ずかしながら私の息子の蔭刀と申します。社長見習いとして私の仕事を手伝わせているのですが、どうにも覇気のない息子で。いまや歌舞伎町で実業家として、その名を知らぬ者はいない太子を見習わせようと連れてきた次第です」
「ああ、そうですか。では、これからはどうぞ懇意にお願いします」

 これも良くある流れ、取引相手の息子や娘に引き合わされるのは。娘の場合は自分が若いだけに、さらなる展開を目論んでいる場合もある。かえってそちらの方が厄介な事になる事が多いので、こんな末成りのような相手の方が手玉に取りやすいと、腹の中で肉食獣のように舌なめずりをする。
 太子の差し出した手に応え、握手を交わすその青年。その手の線の細さと冷たさに、どこか具合でも悪いのではとらしくもない事を思う。そしてその予想は外れることはなかった。

 正式の契約は後日と言う事で、客を送ろうとエレベーターに乗り込んだところで太子は伯爵と鉢合わせしてしまった。丁度伯爵はこの冬限定の新作スイーツの買出しに出るところ。いい加減にその行動パターンに慣れてしまえば良いものを、ついビルのオーナー代行としての小言が口をつく。

「……仕事を放り出して、またスイーツか。女子どもじゃあるまいし、いい年をした男が口にするようなシノロモではないだろう!」
「決め付けはよして下さい。スイーツほどその国の美意識が現れるものはありません。四季折々の季節感を織り込んだ逸品が作られているのに、それを愛でてどこが悪いのですか?」
「お前の場合は、それが過ぎてると言っているんだ!!」
「そうですか。別に私は困りもしませんが?」

 どちらも一般人より癖の強い『気』を持つ二人。そんな二人が狭いエレベーター内で言い争えば、たちまち険悪な気が充満してしまう。その毒気に当てられたのか、ふらっと青年が崩れるように倒れた。

「蔭刀っっ!!」

 父親である人見社長が息子の様子を覗き込む。

「お前のせいだぞっ! 伯爵!!」
「人のせいにしないでくださいな。それよりも、ちょっと様子を拝見」

 落ち着いた様子で青ざめた顔色の青年の様子を伺う。脂汗を浮かべ体温の下がった額に手を触れた。それから急いでエレベーターを止め外に連れ出す。閉所恐怖症でなくとも発作的に狭い空間がダメになる場合がある。それが引き金となって過換気症候群をおこしたのかと思ったのだ。

「すみません太子、私の店までこの方を運んでくださいますか」
「あ、ああ。分かった」

 面倒だとは思いながらも、一応は取引相手。
 男にしては軽いその体を支え再度の発作を用心し、非常階段を三・四階分上る。先を行く太子と伯爵の後をぶつぶつと、文句を言いながら青年の父親である人見社長がついてきていた。店に戻るとすぐに、ペットショップのインテリアとして置かれている清王朝風の寝椅子の上に青年の体を横たえた。

「ああ、すみません。なんだか急に息苦しくなって……」

 寝椅子の上から、かろうじて半身を起こし青年はそう謝罪する。

「いえいえ構いません。どーせ太子の高圧さに毒されたのでしょうから。どうぞ、これを」

 にこやかさを湛え、伯爵が香りの良いお茶を青年に勧めた。お茶の香りと共に、爽やかな酸味のある香りも混じっている。

「これは……」
「ある種のモクレンの果実で作ったお酒入りのお茶です。不眠や神経症、疲労回復に効果があります」

 伯爵の説明に、青年は静かにカップを口元に運んだ。

「まったく情けない話だ! 取引相手の前で倒れるような醜態をさらしおって!! それで跡取りの役目が果たせるのか!」

 こちらは腺病質な癇の強さを滲ませて、息子を心配するより罵っている。

「まぁまぁ、人見社長。病人を前に、そう言われなくとも」
「いや、言わせて下さい! 蔭刀、お前に太子ほどの才覚とバイタリティがあれば私もこんなに言いはせん!!」

 初対面な人物の前でそう自分を罵る父親を、悲しそうな表情で見ている。それに気付いた伯爵が、そっと言葉をかけた。

「太子は肉食獣なんですよ、猛々しく必要以上に獲物を屠る。私は草食獣の優しさも好きなんですけどね」
「……ビジネスの世界では、それでは通りません。私は後継者失格なんです」
「どうしても継ぎたい仕事でなければ、継がなくても良いのではありませんか?」
「それを聞き入れてくれる父ではありません……」

 半分諦めたような弱々しい笑顔を見せた。

「それが原因ですね? あなたの体調不良は。お父様との事が心にかかって夜もよくお休みになれてないのでしょう?」
「それもありますが、不眠の原因は毎晩見る夢のせいもあると思います」
「夢?」

 青年の父親の愚痴を聞かされる羽目になった太子を横目で見ながら、青年の口から出た『夢』と言う言葉に、伯爵らしい関心を示す。ペットショップの動物達が、人間には判らないように囁きあっている。


 ―――― あの若い男は伯爵のお客になるのかな?
 ―――― だろーね。あの伯爵の眼を見ればさ。

 ざわつく店内、低く篭った動物達の唸り声や囀り。

 ―――― 『夢』だって! あのお客、『夢』だって!!
 ―――― じゃ、また『夢喰い』の吃夢(チームゥ)様の出番かな?

 伯爵が後ろ手で店の子たちの騒ぎを抑える。

「良かったら、話してみませんか? 少しは心が晴れるかもしれません」
「話せばきっと神経内科を勧められると、自分でも思っています」
「医者の前で話す予行練習だと思えば?」

 さらににこやかに微笑みかけ、お茶のお替りをカップに注ぐ。心が和ぐお茶の香りと、同じ東洋人でも目を見張るようなエキゾチックかつ蠱惑的な笑みで、伯爵は青年の言葉をさらに引き出す。

「……蜘蛛の巣の夢です。それこそ巨大な蜘蛛の巣が闇に浮かんでいて、蜘蛛の糸がとても綺麗にきらきら光っているんです ―――― 」
「そして、あなたはその蜘蛛の巣に絡め取られている……」

 青年は弱々しく首を横に振る。

「いえ、私はただその主のいない蜘蛛の巣を前に、虚しい思いを抱いて立っているだけなのです。ただただ、訳の判らない虚しさだけが胸に巣食って、遣る瀬無い気持ちに押し潰されそうなのです」
「それは…、とてもお辛いですね。その虚しい気持ちを、ここに居る子たちで埋める事が出来れば良いのですが」

 そう言いつつ伯爵は、自分の後方に控えているペット達を見やった。

「そう言えば、ここはペットショップですね」
「ええ。店の屋号は『D伯爵』と申します。私もそう呼ばれてます。どうですか? ウチの子を誰かお連れになりませんか?」
「ペットを……。いや、こんな気持ちの飼い主じゃ、ペット達の方が可哀想です」

 きらりと伯爵の眼が光る。

「そうですか。ではもしお客様のお気が向きましたらいつでもおいで下さい。ここではどんなご希望のペットでも取り揃えておりますから。それこそ普通の犬や猫から条約スレスレのもの、とても珍しい種類のものまでなんなりと」
「伯爵……」

 伯爵の口車に乗せられそうだと見て取ったのか、父親の相手をしていた太子が二人の間に割り込んできた。

「それは止めた方が良い。こいつの扱うペットは胡散臭いものが多いからな」
「営業妨害はしないでください、太子」
「聞くな、こいつの話にのると碌な事にはならん!」

 喧嘩しているのかじゃれているのか判らない二人をどこか羨ましそうに見、そして自分に突き刺さるイラついた視線に青年はまだよろけそうな体を寝椅子から起こした。

「あ、もう少し休んでゆかれれば ―― 」
「これ以上、ご迷惑をかける訳にはいきません。もう大丈夫ですから……」

 さっさと店の外に出て行っている父親の後を追うように、青年も会釈をし店から出てゆこうとした。その青年の耳に伯爵の密やかな声が伝わる。

「動物以外にも爬虫類から昆虫までございます。今、ご自分が何を必要とされているか見つかるとよろしいですね」

 その言葉は、青年の胸に深く沈みこんでいった。

 あの青年親子が帰り、ひとしきり悪態をついていた太子も引き上げた。店の中には伯爵と店の子達だけ。抑えたはずのざわめきが、倍化されて波のようにざわめいている。

「帰しちゃったの? あの人、伯爵のお客でしょ?」
「ええ、彼はまたこの店に来ますよ」
「ずいぶんと影の薄い奴だったな。生気がないっていうか、中身スカスカっていうか…。あーいう奴は食っても歯ごたえがないんだよな」

 ぐるぐると羊に似た獣が鋭い牙を見せながらそう言う。

「味でお客を判断してはいけません。不味いなら不味いなりの『味』というものがありますから」

 軽くたしなめ、伯爵は背後の扉の奥に視線を向けた。半開きのその扉の中、店内の照明が差し込まない影の中にすっと姿勢を正しこちらを見ているモノがいる。長い黒髪、凛とした眼差し赤い唇。近寄りがたい孤高な気を漂わせて。

「貴女がここに寄られたのは、この為ですね?」

 影は微動だにしない。微かだが強い意思を感じさせる声がその影から聞こえた。

「……あれは、またここに来るだろうか」
「ご心配なく。私のお客様を見る目に狂いはございません。『なに』を求めているのか、それを見極められたら、必ずここへ参るでしょう」

 体を扉の方へ向け、深々と頭を下げ恭しく礼を尽くす。
 扉の中の影は、その仕儀に値するモノであった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 数日後、あの時買いそびれた冬限定スイーツをゲットし上機嫌の伯爵が自分の店の前に戻ってみると、外出中の札の前で額にうっすらと血管を浮かべている太子とあの青年の姿があった。思わず浮かぶのは、仏像の如き古刹な笑み。

「お・ま・え・は〜〜〜っっ!!! 何度言えば判るんだっ!? 俺の店子なら営業時間はちゃんと守れ!!」
「なにを今更…、当店の常連の方々はこの店の本当の営業時間をご存知です」
「それがいかんと言っているんだ! 郷に入らずんば郷に従え!! それが社会の規範だろう!」

 伯爵の顔に浮かんだ笑みにどこか冷たいものが混じる。

「太子の口からそんな言葉を聞くとは…。ええ、守るべき規範は守ります。でも人間の勝手を押し付ける為の規範などでしたら、最初から願い下げです」

 この惑星で、『生き物』としての規約を一番破っている存在でありながら、それを言うのかと顔に浮かんだ笑みは冷笑にと変る。

「太子のお言葉ではありませんが、お客様も来店頂いておりますし私もお仕事モードに切り替えましょう。さっ、そーゆー訳ですので太子はとっととお帰り下さい!!」

 と、ほとんど蹴り出さんばかりの語調で店の扉を太子の前で閉めたてた。

「あの、お休みの所を申し訳ありません」

 自分のせいで伯爵の機嫌が悪くなったと、青年はそれこそ申し訳なさそうにそう詫びた。

「あっ? いえいえ、こちらこそ留守にしていて申し訳ありませんでした。それにまぁ、ちょっとみっともないところをお目にかけてしまいました。お詫びと申してはなんですが、一緒にお茶でも如何ですか?」

 そう青年を誘った時にはもう、伯爵の手元には午後のお茶会の準備が整いつつあった。
 買ってきた限定スイーツを切り分け、その他にも取り寄せておいた各地名店の逸品スイーツを幾つも並べる。飲み物も紅茶だけでなく中国茶や日本茶、コーヒーまで何種類も用意し、沸きたてのお湯を注ぐだけに準備されている。

「お楽しみの時間をお邪魔してしまったようです。また、日を改めます」

 すっかり萎縮してしまい青年は、そう挨拶をして帰ろうとした。

「いつもの事ですから。私の店の常連様方は大抵この時間を見越しておいでになる事が多いのです。ですから遠慮はいりません。お茶の時間は私も一人でよりも、何人もの方と一緒に過ごすほうが楽しいですし」

 先ほどの冷たい笑顔と打って変わって、本当に楽しそうな笑顔を向ける。伯爵のお客を帰すまいと、青年の足元ではアライグマや子狐が纏わり付き、出口の扉の前には変った種類のヒツジと大型犬が何頭か座り込んでいた。

「どうやら店の子たちに気に入られたようですね。こうしてご来店下さったと言う事は、何かペットをお求めになられるおつもりになったのでは?」

 青年は足元の動物たちに誘導されるようにお茶会のテーブルへと連れてゆかれる。そのまま成り行きで伯爵のお茶会のゲストに納まってしまった。
 青年の前に並べられたスイーツと伯爵お奨めのお茶と。甘く芳しい紅茶の香りが緊張していた青年の心を解きほぐしてゆく。紅茶のカップの温かさを楽しみつつ、青年はどう切り出そうかと言葉を捜した。

「……あれから、あなたの言葉の意味をずっと考えていました。私が何を必要としているか、それを。そして、この胸の空虚さは夢の中の空っぽの巣と関係しているのかもと気付いたのです。それで ―――― 」
「それで?」

 この青年が自分から言い出さなければ、伯爵は自分からそう水を向けるつもりで先の言葉を促した。

「夢の中でも飼える蜘蛛、というのはいるのでしょうか? もしいるのなら、それが欲しいのですが」
「蜘蛛? そう、蜘蛛で宜しいのですね。それならばぴったりの蜘蛛が一匹、当店におります。今からご覧になりますか?」

 口調は丁寧で優しいものの、伯爵の瞳に宿る光は否応を言わせない強く異様な強さを感じさせた。

「えっ、あ、はい」

 席を立った伯爵につられて青年も席を立つ。伯爵は店の奥の扉をあけて、青年をその先の通路へと招きいれる。先を歩く伯爵の後を追い、通路を歩いてゆく。扉の奥の通路は青年が思ったよりも複雑に入り組んで居るように思えた。商業ビルのワンフロアとは思えないような高低さがあり、広さがあった。扉が閉まった部屋を幾つも通り過ぎる。扉が開いていて中が見える部屋もあった。ざわざわと大勢の人間がこちらを興味深そうに見ているのが居心地悪く、またその風体の異様さというか艶やかな妖しさに別の店に入り込んだのではと、いつの間にペットショップの店外に出たのだろうと思っていた。

「あの、ここは一体どこですか? なんだかペットショップとは関係ない場所のような気がするのですが……」
「いいえ、ここもペットショップの店内ですよ。色々取り揃えておりますので、それなりの広さがないとですね」

 笑顔でそう説明し、やがて一つの扉の前で伯爵は立ち止まった。

「さぁ、ここです。どうぞあなたの目でご覧下さい」

 扉が開かれた室内はとても薄暗かった。だんだん目が慣れてきて、暗闇の中を目を凝らしてみると、薄いレースのような帳が幾枚もかかった中に、人影のようなものが見えてきた。その存在を認めた途端、青年の胸の中にじりじりとした熱いものが湧き上がり、同時に背中も焼けるように熱くなる。
 繊細なレース細工の帳の中にいるモノ、それは青年の眼には一人の美しい女性にしか見えなかった。真っ直ぐで艶やかな長い黒髪、凛とした眼差し花のような赤い唇。背筋の通った均整の取れたプロポーションからは威厳さえも感じ、その雰囲気は身にまとっている白と赤の装束とも相まって神秘ささえ感じさせた。

「あ、あの、この方は……?」
「ここにいるのは、『蜘蛛』です。上臈蜘蛛の変種ですよ」
「でも、私の眼には人の姿に見える……」

 暗闇の中で伯爵の金の瞳が妖しく光る。

「それは…、あなたとこの蜘蛛の相性が良いからでしょう。この蜘蛛をあなたの夢の住人とすれば、きっとあなたの胸に巣食っている虚しさも消えることでしょう」
「夢の、住人に? でも、どうやって……」
「難しく考える事はありません。あなたの側にこの蜘蛛を置いておくだけで、この蜘蛛はあなたの中に…、いえ、夢の中に棲みます」
「………………………」

 青年は伯爵の説明を、別の意味で聞いていた。伯爵はこの神秘的な女性を『蜘蛛』だと言ったが、どう見ても美しい若い女性にしか見えない。それなのに自分の側に置いておけというのは、つまりその手の女性を斡旋をしていると言う事なのか。ならばこの部屋に来る途中で見たあの妖しげな者達の事も納得できる。そんな商売をする者を『ペット』と称して斡旋しているのかもしれない。
 場所も場所、歌舞伎町ならばその手の商売が無い訳ではないだろう。でも目の前の女性はそんな事を生業にしているような商売女には見えなかった。

「おや、お気に召しませんでしたか? ならば、他のペットを探さないと ―――― 」

 伯爵の呟きに、はっと我に返る。『他の』と言われて、『他の』ではないと改めて気付く。
 自分が欲しいのはこれだと、自分の中の何かが大きな声で叫んでいた。

「ちょ、ちょっと待ってください。本当にこの方を連れていって、犯罪などにはならないのですか?」
「犯罪? おかしなことを…。ペットショップでペットを買ったお客様がそのペットをご自宅に持ち帰るのを、誰が咎めると言うのでしょう?」
「では、これは本当に『蜘蛛』なのですね」
「はい。何度もそう申し上げています」

 ごくりと青年は喉を鳴らした。今までの虚無感を押し破って、今度はじわじわとした飢餓感のようなものが湧いてくる。ひどく喉が渇いたような気もした。

「……これをお願いします」
「承知いたしました。では、こちらの誓約書にサインをいただけますか? いえ、この蜘蛛を飼う際の注意書きみたいなものですから」

 伯爵が取り出した羊皮紙に書かれた文言に目を通す。
 そこには ――――

 ひとつ、この蜘蛛の姿を他人に見せないこと。
 ひとつ、けっしてエサを与えない事。
 ひとつ、事が終り次第、この蜘蛛を店に返すこと。

 もし、この誓約書の決まりを破り飼い主とペットの間に何か不幸な事柄が起きたとしても、当店の責任ではない事をここに約すものなり。

 そんな不可解な文言が書き付けてあった。

「不幸な事柄とは……?」

 あまりな不穏な言葉に、思わず尋ねずにいられない。

「ああ、それは一応形式的なものです。私、以前はアメリカの方で店を構えていまして、あちらでは飼い主の方に落ち度があっても、ちゃんと誓約書を取っておかないと裁判でひどい目にあうのです」

 訴訟大国であるアメリカの、日本では信じられないような訴訟の内容をたまに耳にする度に、出来の悪いジョークのようだと思う事がある。しかし、それを現に目の前で見てきたのだとしたら、この用心深さは仕方がないのかもしれない。

「店に蜘蛛を返す…? これは、どう言う事ですか」
「この蜘蛛は今のあなたを慰めるための蜘蛛です。そう長い間、お手元に置かれる事はないと思います」
「いや、飼うとなったらちゃんと飼い主としても責任を持たないと……。いい加減な気持ちでは、どんなペットであろうと飼うべきではないのでは?」

 ひどく生真面目な性格でもあるようだ。こんな出逢いでなければ、最後まで愛情と責任を持って接する事だろう。しかし、このことは本人の気付かぬところでの因縁の決着をつけさせるためのもの。家族の一員として迎え入れられるペットとは、最初から意味合いが違うのだ。

「そうですね、ではこう申し上げれば判りやすいでしょうか。その蜘蛛はあなたに一時預けるものです。ですから御代などは要りません。あなたが必要だと思われる間、お貸しすると言う訳です」
「なぜ伯爵がそんな事を?」

 ペットとして蜘蛛を売るのならビジネスとして成り立つ。しかし今の話では、まるでボランティアではないだろうか? そんな疑問が青年の胸に湧く。その胸の中を見透かしたのか伯爵が言葉を続けた。

「……これはあの方のご希望なのです。当店では失礼ながらお客様のご要望よりも、ペット達の希望の方が優先します。特に特別なペットの場合は」
「えっ? それは、どう言う意味で……」

 青年が呟きつつ、薄闇の中に佇むその美女に視線を向けた。真っ直ぐにその人は青年の視線を受け止め、圧倒的な存在感で青年を見つめた。吸込まれそうな瞳だった。

 よく意味が判らない。判らなかったが、それでもどうやら自分はあの謎の美女に気に入られたのだという事だけは判った。


 ―――― それだけで、もう十分だった。


 店の表に戻り、あの誓約書にサインをした。
 どのくらいの時間をあの部屋で過ごしたのか、ビルの十三階にあるペットショップの窓から覗く空の色が黄昏を過ぎようとしていた。
 伯爵が青年のサインを確認し、それを手に扉奥の通路に入って行った。あまり待たされることなく、あの美女を連れて戻ってくる。

「浄蓮様、こちらでございます」

 ああ、あの美しい人に相応しい名だなとぼんやりと思う。明るい店内の照明の下で、なおその人の美しさが際立つ。その人の濡れた様な黒い瞳と視線が絡む。思わずひれ伏したくなるような衝動と、それと同じ強さで反発する凶暴な思い。


 手に入れたい! 手に入れたい!! 手に入れたいっっ!!! ――――
 そして、この手で ――――


 青年の中で、青年ではない『誰か』が血を吐くような雄叫びを上げていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「では、約束は必ず守ってください」
「ええ、では……」

 青年は夢現な様子で、手に中型のガラス製の昆虫ケースを抱えてペットショップを後にした。その中には頭が黒、胸までは白、腹から下は鮮やかな緋色をした大型の蜘蛛が一匹入っていた。たまたま通りかかった太子がそれを見、忌々しそうに舌打ちをする。取引相手から、手にしたペットを難癖つけて取り上げる訳にも行かない。それでもただでは済まなさそうな雰囲気を感じて取りあえず、イラついた気分のはけ口を曰く有りげなペットを売りつけた当の本人にぶつけることにした。

「……今の客に、何か変なモノを売りつけたんだろう? お前は!!」
「今度は何を怒っているのですか? ちゃんと仕事をすればしたで、こうしてイチャモンをつけるんですか」

 伯爵の怒気に感応して、店の動物達も威嚇で逆毛を立てて唸っている。

「取引相手にヤバそうなモノ売りつけられたんじゃ、こっちも困るんでな。見たことも無い蜘蛛だったぞ!」
「ああ、あれは……。上臈蜘蛛の変種です。綺麗だったでしょう、色の鮮やかさがまるで作り物のように」
「あれが上臈蜘蛛? そうは見えんが、毒蜘蛛じゃなんだな」
「上臈蜘蛛も毒は持ってますよ? まぁ、ほとんど害のない程度ですけど。大型の奴だと、場合によりますが……」

 意味深な笑みを浮かべ、青年の去って行った方向に視線を向ける。
 願わくば、あのお方の想いが成就する事を祈りながら。


【2へ続く】

2008.11.24 脱稿

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