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【 Arakune 2 】




文章中一部分に虫的グロ表現があります。苦手な方はご注意下さい。


 青年の家が昔、この辺りの士族であったというのは本当の事で、今もその当時の武家屋敷に住んでいる。長い年月、二度の戦争。そんな歴史の波風を受け、屋敷はそれなりの広さはあるものの、老朽化は著しい。建物そのものも傷んだところをその都度改修するのではなく、体に出来た悪い部分を切り捨ててゆくように取り壊してきたので元の建物の三分の一もないほどだ。

 青年は、その広い敷地の端にある離れを自室として使っていた。食事などは母屋で摂るため、完全なプライベート空間である事を承知して、家族も滅多にこの離れまで来る事はない。自室の鍵を開ける。照明を点けると本棚と広い机とベッド、それからクローゼットだけの殺風景な室内が燭橙色の光に照らし出される。
 机の上に抱えていたガラスケースを下ろした。中にはあの蜘蛛が一匹。どうしてあのペットショップに居た時は、この蜘蛛が美しい女性のように見えたのだろうと不思議に思う。でも、騙されたとは思わない。最初から伯爵は、『蜘蛛』だとしか言わなかったのだから。
 魔法にでもかかったようなそんなあやふやでホラーじみた、それでいてどこか心が沸き立つような感じは随分久しぶりな気がする。そう言う意味で言えば、確かに自分の中の虚しい感じは多少は軽減されたのかもしれない。

「……伯爵が君をあまりにも『人』のように扱うから、そんな魔法にかかっていたみたいだ」

 きっとあれは催眠術のようなものだったのだろう。伯爵の持つ雰囲気と店内に焚きこめられたお香と、それからもしかしたら勧められたお茶の中に幻覚を見せる成分でも入っていたのかもしれない。

「浄蓮様、か。蓮の花は泥水の中でも清く美しく咲く花だから、穢れを浄化する花とも言われている。巫女装束のようなその体の色には相応しい名だ」

 照明の光の中で、その蜘蛛は眠っているかのように少しも動かない。ふと青年はある思いつきに、自分の中がかっと熱くなるのを感じた。

「そうか…。もしかしてこの蜘蛛を飼う事で、あの夢の中の蜘蛛の巣に棲むのは人の姿をしたこの蜘蛛、浄蓮ってことになるのか……」

 ぞくぞくとしたものが背中を駆け上がる。あの巨大な蜘蛛の巣に捕らえられた様な、いやそこを玉座と威厳を保って在るような、そんな姿。それはどんな素晴らしい情景だろう。あの美しい人と自分と、二人だけ。蜘蛛の糸に結ばれてしまえば ――――

 期待を込めて、その夜は眠りについた。
 その夜から、その蜘蛛は青年の夢の中に美しい女人として棲みついた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「では、お売りした建物二棟の権利書と宅地証明です」

 テーブルの上に必要な書類を揃え、そう説明するのはあの青年。場所は青年の父親が経営する不動産会社のオフィスの応接室。本契約を後日にと言っていた太子の言葉通り、今日はその本契約の日。

「ああ、ではこれを ―― 」

 前の打ち合わせの時に決めた売却価格より少しイロをつけた額面が、その小切手には記載されていた。その額を見て取ると、青年は小切手を受け取るのを躊躇した。

「……金額が違うようですが」
「野暮な事は言いますまい。これからも取引をしていただく為の、その挨拶料も入ってます」

 含みを持たせた笑みを浮かべ、太子が答える。太子の狙いは近辺に点在する老朽化した建物群などではなく、人見家本宅の広い敷地そのものだった。金の力で、その有利な土地を是非でも手に入れようと動いていたのだ。

「すみません、太子。なにしろまだまだ若輩者で、そのあたりの融通が利きませんで ―― 」

 青年の隣で様子を見ていた人見社長が、もみ手をせんばかりにその小切手に手を出そうとしている。

「判りました。では直ぐに契約書をその金額で作り直しましょう。領収書もお付けしますから」

 あの影の薄い感じは消えうせ、テーブルの上の書類をまとめて取り上げると、機敏な動作で応接室を出て行った。そう出られては太子の思惑は、そこできっぱりと蹴られた形になる。正規外での金銭授受があるからこそ、こちらも優位に立てるものをそこを一刀両断にされたのだ。
 何か違うと、そう思う。ほんの十日程前の、あの青年の様子とは。今日の本契約の話も太子の腹積もりとしては、自分の領地である新中華街ビルのオフィスで済ませるつもりだったのだ。それをこの青年の、またあのような失態をしでかしては申し訳ないので、ご足労願いますが、どうぞこちらのオフィスまで足を運んでもらえないでしょうかと言われ、まぁ、それもそうかと出向いた自分がすでに相手の手の内に落ちたような気がしていた。

「なんだか、ご子息雰囲気が変わりましたな」
「はい、申し訳ありません。なぜか二〜三日前から、仕事にも精を出すようになって……。もともと学業は出来る方でしたので、何がきっかけか判りませんがどうやら本気になったようです」

 冷や汗を浮かべながら、すっかり立場が逆転した人見社長が太子に詫びている。伯爵の所からあの蜘蛛を連れ帰って、すっかり青年は人が変ったようになっていた。今までは父親のやり方に口を挟む事もなかったが、会社の経理関係をいつの間にかすっかり調べ上げ、あまりに杜撰な経営に理詰め計算詰めできっちりと父親の無能ぶりを叩いたのは昨夜の事。そして、これからは必ずどんな契約も自分が目を通した上でないと、契約させないとまで言い放ったのだ。

 ここに父子間での下克上が成立していた。

「お待たせしました。頂いた小切手の金額に合わせ、売却物件の評価額の方を訂正させていただきました。売買契約書の方も修正しています。そして、こちらが領収書になります」

 税務署が入っても恐くないほど一分の隙もなく、きっちりと契約は完了した。そのきっちりさに、太子は少なからず不機嫌になる。脅し文句のつもりで、今後の契約の事を口にした。

「……こちらの好意がお判りにならないとは、残念です。どうも、あまり相性が合わないようですな。そうなると、次の契約は ―― 」

 ぴくりと小さく体が跳ねるように動いたのは父親の社長の方だった。

「あ、そ、そんな…。ぜひ次の契約も……」

 口の中でぼそぼそとそんな事を言っている。それを青年の声が遮った。

「あるものを壊して新しくするのも開発ですが、現在ある資源を有効に使い切るのも開発ではないかと思うのです」
「ほほう? こう言っては失礼だがあなた方の会社が保有する建物の大半はもう老朽化して、不動産的価値は殆ど無いものばかり。現に賃貸契約者の激減で会社の運転資金にも焦げ付きが出ていると伺いましたが」
「住宅としてはですね。ですが、あれを店舗用に転用して住宅家賃並みの価格で出せばどうでしょう? 店のオーナー達の個性に合わせて改装してもらって、再生活用するのも面白いと思います」

 ぐっと、言葉に詰まる。
 立地条件の良さに加え、すでに建築費そのものは償還し終えた物件である事を考えれば、かなり破格の家賃設定でも十分利益が出るだろう。ビルを建てたばかりの新規参入の太子側には出来ない芸当だ。

「そうですか。そちらの意向を知る事が出来たので、これからの付き合いをどうするか考えるとしよう。今回は、これで完了と言う事ですな」
「どうしても土地が必要でしたら声をかけてください。出来る限りご希望に添いたいと思います」

 明らかな立場の逆転に、太子も臍を噛む。だから、聞かずにいられなかった。

「この前お会いした時とは、まるで別人ですな。うかうかしているとこちらが食われそうだ」
「そうですか? もしそうならば、きっと伯爵のおかげでしょう。本当にあれは素晴らしいペットです、生活に張りが出たというか生きているって実感します。そうですね、エサを上げなくても良いという点だけ気がかりですが」

 覇気と生気に溢れた青年の姿を忌々しく太子は見ていた。
 やはりあの時自分が思った、ただでは済まないと思った予感はこんな形で的中していた。

 新中華街ビルの自分のオフィスに戻っても、太子の腹の虫は収まらない。八つ当たりだとどこかで判っていたが、文句の一つでも言ってやろうと十三階のフロアに下りた。行く先は当然D伯爵のペットショップ。珍しく臨時休業の札も外出中の札も出ていなかった。店の扉を開くと、お茶の良い香りが漂っている。

「……またお茶か」
「おや、今日は丁度良い時間に来られましたね。どうです、お茶を一杯」

 言われるまでも無く、この店に来たらいつも座る椅子に腰を下ろし横柄な態度で伯爵の様子を見ている。

「何かご機嫌が悪いようですが?」
「ふん! お前のせいで大きなヤマが一つ潰れた」
「仕事の話ですか? 私はなにも口出しなどしてません」

 かちゃりとティーカップを太子の前に置く。

「……お前の所であの変な蜘蛛を買っていった若社長がいただろ? あれが大化けしたぞ」
「大化け?」
「ああ、最初会った時は生気がないというか末成りなボンボンだった。父親の現社長もたいした事は無い。それならあいつらが持っている土地を買い叩けると踏んだんだが、こっちを喰う腹できやがった」
「……太子ともあろうお方が、品のない。土地買収を持ちかけて、あの若社長に蹴られたと言う事ですか」

 店に他の客は無く、伯爵も太子の前に腰を下ろした。

「妙に落ち着き払って、自信満々な顔でな! エレベーターの中で倒れた奴と同一人物とはとても思えん」
「あの時はたまたま体調も悪かった。ペットを飼う事で心に安らぎを得、自信がついたと言う事かもしれません」

 伯爵は納得気に微笑んで、お気に入りのお茶の香りを楽しみカップを口元に運ぶ。
 
「たかがペット一匹で、そんなにも人の性格や行動が変るものなのか?」
「勿論、変わりますとも。相性が最適であれば。そんな飼い主の為の唯一のペットと、ペットの為のたった一人の飼い主を結びつけるのが私の使命ですから」

 誇らしくそう語る伯爵の顔を、面白くなそうな表情で見る太子。

「……あの方の願いが成就するのも、そう遠くはないでしょう。無事に事が済むまで、あと少し」
「ん? なんだ、その『あの方』とは」
「あ、いいえ。こちらの独り言です。どうですか? 太子もそんなペットが欲しいとは思われませんか?」

 太子が望みさえすれば、太子の為のとっておきのペットは既に用意している。『それ』が太子の人生にどう影響してくるかは、太子次第。ふっと伯爵の顔にひどく冷酷な色が浮かぶ。

「ペット(愛玩動物)なんざ、人間の女だけで十分だ。なんだかお前の顔を見ていたら、もっと気分が悪くなってきた」

 笑顔の下のその色を感じたのか、自分のいい様に言い捨てて太子は店を出て行った。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 伯爵が言ったとおり、青年が得たものは安らぎと自信。
 あの夜から、その時が待ち遠しいほどに。

 蜘蛛を連れ帰ったその夜、期待と不安が入り混じった気持ちを抱いて青年は眠りについた。
 そしていつもと同じ夢を見る。何も無い蜘蛛の巣を前に押し潰されそうな空虚感に襲われていた青年は、そこに細い銀糸を裳裾のようになびかせる天女のような浄蓮の姿を見た。神職に就く巫女のような彩りでありながら、その姿は青年の眼にはもっと艶やかで魅惑的な様子に見える。何よりも、今まで自分以外の何者もいなかった空間に、その人が在る! その存在感の大きさが青年の空漠な心を満たした。
 心が満たされ、朝目が覚めると嘘のように気力が湧いてくる。体の奥が活性化され、それこそ眠っていた才気や闘争心のようなが目覚め、世界が一転していた。父親の手伝いでしかなかった事が今では自分の仕事と思え、成果を求めそれを達成する喜びを見つける。

 充実した昼間と、安らぎの夜と ――――

 夢の中で、あの人に会える嬉しさを抱えて今日も眠りに付く。
 夢の中の青年の在り方は、まるで純真な少年のようなものだった。崇拝する美しい女神をたたただ見つめるように、あの巨大な蜘蛛の巣の神殿の中心にいる浄蓮の姿を見るだけで胸が熱くなりいっぱいになってしまう。そんな幸せな感覚の中に、もっと熱いモノが蠢いている。あの人に向ける想いの熱さは同じはずなのに、その熱いモノから自分のこの想いを疎ましく感じていることが伝わってくる。

 青年は自分の中の二面性に気がついた。

 あの人を女神のように思いたい自分と、あの人の全てを手に入れたい自分との想いに。
 相反するその想いは青年の胸の中を熱く妬き、体が引き裂かれそうだと思うことすらある。それは夜毎に強くなる感覚だった。あの人を欲する思いの強さは、昼間の仕事への闘争心のようなものにすり替わっている。ノルマをこなし、それが成果に結びつく実感は快感と同じ。

 夢の中で何を話す訳でもない、触れることさえない。
 あの人は潤んだ黒い瞳で青年を見、薄く開いた赤い唇が時折小さく動く。
 体の芯が熱く、漲る。
 抑制されたそれは、息苦しさを伴っているがそれもまた快感。

 判っているのだ。

 これは夢だと。
 あの人は蜘蛛の化身なのだと。
 この思いを遂げようと近付けば、あの蜘蛛の糸に絡めとられてしまうのだ。
 今、ここで立ち止まれ!


『人』として!!


 ずるりと、自分の中から何かが抜け出した。
 ふっ、と心が軽くなる。
 身を焼きそうな情欲という名の衝動の波が、すっと引いてゆくのを感じた。


( ―― !! なんだ、今の感じは…… )


 自分の目の前を、黒い影がズルズルと這いずっている。その放つ気は人のようで人でなく、その姿も人のようで人ではないようだった。青年の眼にはっきり映ったのは、それの背中で蠢く赤い蜘蛛だけ。
 それを見た時、青年は全てを了解した。

 なぜ、主の居ない蜘蛛の巣の前であんなにも空虚な想いに駆られていたのか。
 あの人がなぜ、ここに来たのか。
 そして、自分の身の内裡に潜み棲んでいた『蜘蛛』が今、自分を解放した事を。


 ―――― キ、キキョウ……。桔梗……

 それは蜘蛛の巣の中心に佇むモノに向かって、そう声を絞り出した。

 ……やっと這い出してきたな。

 冷ややかな女の声。感情の起伏を感じさせない。

 桔梗 ―――
 ここまで来るがいい、鬼蜘蛛。

 微かに身じろいだのか、大きな蜘蛛の巣が暗闇に自らの光を揺らした。
 ずるり、ずるりとそれはおぞましげに這い寄ってゆく。
 女はそれを待ち構えている。

 桔梗、桔…梗……、オ、オレノ、モノ…………

 邪悪な赤い蜘蛛が這い寄り、巣に足をかけた。

 ……今でもお前は私が欲しいのだろう? もう、拒みはせぬ。お前のモノにするがいい。

 蜘蛛の巣が大きくゆれ、そこは蜘蛛たちの褥と変る。
 赤い蜘蛛があの人の上に覆いかぶさり、八本の足で陵辱という名の愛撫を始める。
 四本の足であの人の手足を拘束し、残った四本の足で胸を肌蹴させ緋袴の帯を解く。
 八つの眼と牙のある頭をあの人の柔らかな胸に埋め込んで。
 蜘蛛の赤黒い下腹を挟むようにあの人のぬめる白い大腿が動き、しなやかで真っ白な腕が蜘蛛の頭を自分の豊かな胸にしっかりと押さえつけた。赤黒い蜘蛛の下腹が律動を刻み、やがて弛緩する。

 蜘蛛たちの交尾。

 何度かその行為を繰り返した後、青年はなぜ伯爵が蜘蛛にエサを与えてはならないと言ったのかその訳を知る。おそらくもっとも満ち足りた『死』を迎えただろう、その赤い蜘蛛の最後を見て。
 すぅ、と気が遠くなり青年はそのまま意識を手離した。


 明るい朝の日差しと、庭の雀の声で目が覚める。
 あわてて周りを見回し、そこが自分の自室である離れである事を確認する。それからそのあたりにあの蜘蛛の足か何かが落ちてないかと恐る恐る見回した。

 もちろんあれは夢の中の出来事で、現実の出来事ではない。

 それをいつもと変らない朝の様子で実感して、ほぅと大きく息を吐いた。朝日の差すテーブルの上、ガラスのケースに入った蜘蛛の周りにも何もない。静かに眠っているようだ。
 ここ暫くのブーストがついたような活力の漲りは感じないが、それでもひどくさっぱりとした気がする。ようやく自分本来の自分になれたような、そんな安堵感を確かに感じていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「こんにちは、伯爵。あの約束どおり、この蜘蛛をお返しにきました」

 太子に八つ当たりされて二・三日後、あの青年がガラスケースごとあの蜘蛛を返しにきた。

「本当にもう宜しいのですか?」

 それを受け取りながら、念の為そう問いかける伯爵。

「はい、空っぽの蜘蛛の巣の夢は見なくなりました。私の胸にあった訳の判らない虚しい気持ちもなくなりましたから」
「それはよございました」
「……未練がないかと言えば、無いわけじゃないんです。夢の中であの人にもう一度、会えないかと思うくらいには」
「ほぅ……」

 ガラスのケースの中でピクリとも動かないその蜘蛛に、青年は視線を落とした。

「でも、この蜘蛛の本当のパートナーは私ではありません。それをこの眼でしっかりと見てしまった以上、手元に置いておく訳にはいかないと思いました」

 青年が見てしまった、夢の終わり。
 蜘蛛たちの婚礼の終結は、雌蜘蛛に食われる雄蜘蛛の姿。鋭い牙を雄蜘蛛の首筋に突きたて、送り込んだ毒で雄の体内を溶かしそれを啜り、空っぽになった骸まで砕いて一片残さず喰らいあげる。ここまでの一心同体ぶりは人間の世界では有り得ない。それほどまでに、あの二人は互いを必要としていたのだろう。

「一つだけ聞かせてください。伯爵がこの蜘蛛にエサをあげるなと言ったのは、あの状況を見越してのことだったのですか? 雌蜘蛛に交尾後の雄蜘蛛を食べさせる為の」
「……残酷だと思われましたか」

 青年は小さく頭を横にふる。

「それが、あの種の習性なら仕方がありません。自然の摂理をどうこう言うくらい愚かな事はないと思います」
「ああ、やはりよく判っていらっしゃる。それに、この蜘蛛は特殊なのです。エサをあげるなと言うよりもあげても受け付けないのですよ、アレ以外は」
「あの…、はっきり聞いても良いですか? つまり、私は『蜘蛛憑き』だったと言う事なんでしょうか?」
「はい。この蜘蛛は、あなたの中のあの蜘蛛のために用意したものです。今度はあなたの為のペットをお探ししましょう」

 青年がはにかむように小さく笑った。冬の午後のおだやかな昼下がり。青年がぽつりぽつりと話を続ける。溜息交じり、苦笑まじりに。

「非現実を、現実のように受け入れている自分を少しは危ぶんだほうが良いのかも知れません」
「良いじゃありませんか。現実だけが真実なら、息が詰まるというもの。在り得ないことも、あると思える方がよほど豊かな時間を過ごせると思いますよ」

 そう、ここはネオ・チャイナタウン。
 D伯爵のペットショップ。

 この世のありとあらゆる生き物が集まる不思議な店。


  伯爵が勧めるペットの話を丁重に断り、青年は店を後にした。もしこの青年がペットを飼うつもりになっても、伯爵の店ではないだろう。

 青年を店の前まで送りに出ていた伯爵の背後で、ことりと物音がした。振り返ると人型を取った浄蓮…、いや、桔梗が立っていた。

「伯爵、手数をかけさせた」
「いえ、これも仕事の内です。しかし、桔梗様。御身を犠牲にしてまで、あのモノを救う必要があったのでしょうか? 清らな身を絡新婦(じょろうぐも)に堕とすことも厭わぬほどに」
「……清らな巫女のままであれば、この世までこの姿で彷徨いはせぬ。この姿は見てくれだけよ、中はまさしく絡新婦と変わりはしない」
「桔梗様……」

 そう、目の前にいる桔梗は桔梗の姿をした妖怪絡新婦(じょろうぐも)。
 男を惑わし、篭絡し、蜘蛛の糸に絡め取って食い殺す女郎蜘蛛。

 その性を持ってはいても、桔梗の身からは厳しいまでの孤高の気が揺らめいている。

「……また旅を続けられるのですか?」
「いや、その旅ももう終った。私の本当の旅は、もうずっと昔に終っていたのだ。謀略で命を落し、人でないものとして黄泉帰り、そして一番愛した者の腕の中で逝く事が出来た。なりたい未来の私の姿も知っている、それがどんなに幸せな一生を送ったかも」
「では、何があなたを現世までその姿で留めさせたのですか!?」

 伯爵も、この世には有り得ぬ存在。
 死と生を、その身ひとつで繰り返す。

 それゆえに、男と女の情は判らない。
 共に在りたいと思うモノを、求めることの出来ない存在ゆえに。

「……あの男が私を『女』と見、欲した時に生まれた、桔梗の中の『雌』が今の私。犬夜叉の手から零れた、桔梗の欠片」
「………………………」

 そんなほんの僅かな生身の感情さえ許されないほど、『桔梗』は潔癖でなくてはならなかったのか。

「 ―――― 『なにもない』そう言って消えたアレは、無が無に還っただけのこと。でもアレの中に囚われてしまった者たちの想いも、『無』だったのか」


 以前、店に遊びに来た一位様に聞いた昔話。
 遥か昔、人と妖怪が混沌としていた時代に生まれた、稀なる宝玉。強大な力を持ち、願う者の望みをかなえる四魂の珠。それを争い、欲が欲を呼び争いが争いを生む。強大な力は聖でもなく邪でもなく、ただ持つ者の心を映す。欲に塗れ邪悪に染まったその珠を清める巫女ありき。

 巫女に懸想し、禍を撒き、巫女を殺すものを生み出し ――――

 昔々の御伽草子。
 悲運の巫女と時を越えた巫女、それを守護する半妖の少年とあまた溢れる妖怪や魑魅魍魎たちの物語。

 
「……その想い。心ならずその身を乗っ取られた若君の己を嘆く無念さ、浅ましくとも純粋であったやも知れぬあの男の想い。そんなものが欠片のように残ってしまった」
「永の年月をかけて今の世に転生していたという事なのですね」

 ゆらりと巫女の姿が揺らめく。

「もう、ここに留まる因縁もなくなった。私も逝くとしよう。伯爵、後は頼んだ」

 儚く微笑みその姿は、陽炎のように部屋の空気に溶けていった。
 その薄くなってゆく姿を、礼を尽くして伯爵は見送った。



 ガラスケースの中で、かさりと小さな音がした。
 動かなくなっていた蜘蛛の体が抜け殻になっている。

「……桔梗様。無からは何も生まれません。欠片であっても重ねれば、何か生まれるもの。それをあなたは『救い』とされた」

 伯爵の眼は、抜け殻となった蜘蛛の傍らで蠢くものを見つめながらそう呟く。

「これが、その欠片の昇華した姿。『なにもない』、この世でたった一匹の純な存在。私がこの手で大事にお育てしましょう」

 ケースの蓋を開け、母蜘蛛の抜け殻の影にいるモノを掌に乗せた。この命を生むために、仔の父を喰らい、仔にわが身を喰らわせ、そこに在らせる。生まれながらに親殺しの罪を犯させても、この世に存在させたいと願った桔梗の想い。

 それが正しいのか、間違いなのか。
 一介のペットショップの店主には、関係のない話だった。



  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



「伯爵、茶をくれ」

 傍若無人な態度で、ずかずかと店に入り椅子に腰掛けそう言い付ける。

「……太子。ここはあなたのオフィスの応接室ではありませんよ!」
「陳を使いに出してて、茶を淹れるものが居ないからここに来てやったんだ」

 どこまでも俺様な態度。
 思わず淹れるお茶にハバネロのエキスでも入れてやろうかと思う。味は激辛でも香りはフルーティーだから口にするまでは判らないだろう。そんな気持ちを抑え、どこか恐い作り笑顔でお茶を出す。

「で、わざわざここに足を運んだ理由を聞かせてもらえますか?」

 お茶を飲み、間を取りながら太子が口を開く。

「一回流れたと思ったヤマがまとめて片付いたんだ」
「ヤマとは、人見社長のところの件で?」
「ああ、この辺りの所有地全て本家の家屋敷もまとめて処分することにしたらしい」
「えっ? 若社長はかなりやり手でやり難いとか言ってませんでした」

 もう一口、太子は喉を湿らせる。

「心機一転、まるっきり違う商売を始めるらしい。田舎の方に土地を買って、アグリビジネスとかって話だ」
「ああ、それは良いですね。土地を転がすような仕事よりも、ずっと実りがありそうで」

 都会の肉食系のビジネスバトルより、アグリビジネスの方があの草食系の若社長には合っていそうだ。必要なところでは芯が通っていそうだから、それなりに上手くゆくだろう。

「あっ? また変った種類の蜘蛛を入荷したのか」

 ガラスのケースに入れていたそれに目を留め、太子が尋ねる。

「ええ。綺麗な蜘蛛でしょう? 異種婚による新種なんですよ」
「まるで作り物だな。ルビーのような赤い目に透き通った水晶のような体、見た目には綺麗だが、生き物のような気がしないな」
「どうです? 宜しかったらお譲りしますよ。この蜘蛛はちょっと変った特性がありましてね、相手の『気』で体色が変るんですよ」
「色が変る?」
「はい。ほら、言うじゃありませんか、オーラの見える人にはその時の感情や考え方みたいなのが色で見えるって」
「占い師なんかはそう言うな。俺は信用してないが」

 太子の言葉に、伯爵はガラスケースの中の蜘蛛を取り出した。

「ものは試し。太子、手を翳してみてください」
「あぁ、そんな馬鹿馬鹿しい」

 それを見てみたかったのは伯爵の方。意外と強い力で太子の手を取ると、蜘蛛の上に翳した。蜘蛛の水晶のように透き通った体が、ぽぅと薄い金赤色に染まる。それを見て、慌てて太子は手を外した。

「……攻撃的ですが、悪い色じゃないですね」
「ふん。攻撃的で悪かったな! で、悪い色ってのは、なんだ?」

 つっと伯爵の表情が変る。
 右の薄墨色の瞳は影を増し、左の金の瞳は炯炯とした光を放つ。

「底知れない欲に塗れた色、邪(よこしま)な色…… でしょうか」
「欲のない人間はいないからな。そいつは多かれ少なかれ、その悪い色に染まる訳だ」
「そうなったら大変な事になるんですけどね。やっぱりこれは門外不出としましょう」

 とても貴重なモノを扱うように、そっとその蜘蛛を掬い上げガラスケースの中に戻した。

「……そいつ、名前はあるのか?」
「名前? ええ、ありますよ。この蜘蛛の名は『ナラク』と言うんです」

 どこか酷く冷たい響きを含ませて、そう答える伯爵。
 ガラスのケースに戻された『ナラク』は死んだように動かない。
 その透き通った体に店の照明が当たり反射して、淡く虹色に染まっていた。


【完】
2008.11.27脱稿



= あとがき =

『蜘蛛』ってことで、桔梗さんをはじめ「犬夜叉」の物語の発端になったキャラの因縁話、その後みたいな感じで書きました。
今回はかなり「犬夜叉」色も強く出せたと思います。
桔梗さんの扱いがアレですが、蜘蛛をテーマでと考えた時、どうしても外せない要素でしたのでそのまま思うように書いてみました。


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