〜最終話〜
アシルは涙が止まらなかった。おいてきぼりを喰ってしまった子供のような哀しみだった。目の前で起こった出来事をエリクシールの炎に包まれ、映画を見る様に眺めていただけだった。はっきりとはわからなかったがひどく懐かしい匂いがした。
サミュエルは泣きじゃくるアシルを見て、マリエラの最期の言葉を思い出した。エリクシールで彼を救って欲しいと?
「ガブリエル、アシルに再びエリクシールで目覚の儀式を。」
「は?」
「彼の目覚は不完全だ。恐らく自ら命を絶ちシルヴィの後を追おうとしたが、死に切れずにマリエラの粛清を受けたのだろう。不本意にこちら側に生まれ変わった様だ。闇の部分を焼き尽くさねばならん。」
「わかりました。」
サミュエルは悲しそうな顔でアシルをみつめた。そして申し訳ない気持ちで一杯になった。何故自分の感情はこんなに不完全なのだ?神の耳に勝ち、この世を統べる様になった事を悔やむ事がある。何故こんなにも弱い自分が残ったのだろう?あの強く優しいシルヴィルムがこの世界を治めればよかったのではないか?
ぽろ…ん…
優しい竪琴の音が響いた。そしてサミュエルの手に暖かい華奢な手がのせられた。竪琴の音はアルフが、暖かい手の温もりはヴェスタルトがそうっと差し出したものだ。
〜我が主なる方よ〜
あの闘いの時、ヴェスタルトの声でそう聞こえなかったか?かつてシルヴィルムに仕えたナーシアンスの再来であるヴェスタルトはサミュエルを主と呼んだ。
〜いかなる理由があろうとも、シルヴィルム様は御自分からこの世界を去る事を決断されたではありませんか。そんな方がこの世を統べるに相応しいとお思いか?〜
アルフェラの声も聞こえる。
もちろんそれはサミュエルの幻想に過ぎない。今目の前にいる彼らは一言も発せずただ、黙ってそこにいるのだ。
サミュエルは自信を取り戻した様にうっすらと微笑んだ。
「さあ帰ろう、天宮に。我々が地底に潜っている間にかなりの日数が過ぎている。学校も始まるだろう。ラファエル。」
「は。」
「エリクシールを持って帰ってもらいたい。」
「ええっ!?」
「そなたがフォンテイエルから頼まれたのであろう?このあたりから泉が沸くから、持って帰れと。」
「し、しかし…エリクシールだとは…。」
尻込みするラファエルにサミュエルはチャーミングに笑ってみせた。
「賭けは私が勝った。そなたは私の言う事を一つ聞かねばならないはずだ。」
「あっ…。」
ヴェスタルトをちらりと見て、がっくりうなだれたラファエルは、しぶしぶ頷いた。
「わかりました。」
「ね、なんでラファエル先生はあんなに衝撃を受けていらっしゃるんだ?」
地上に上がってサンディはアルフに聞いた。
「お前なんにも知らないのな。」
少し呆れた様にアルフが言う。
「泉を入れた壜は、その泉の性質を持つんだ。エリクシールは燃える泉。普通の人は危なくて壜を触る事も出来ないんだよ。」
「ふうん、アルフってずいぶん物知りなのな。」
「ふん。」
アルフは照れ隠しに少し怒ってみせた。それをサミュエルはにっこりと微笑んで見つめた。
ガブリエルの報告で分かった。サンディはフェルディエルの生まれ変わり。アルフェルの痕跡を追いそばについて来たのだ。長じた後もいつも一緒にいるだろう。
頼もしい仲間がたくさん増えた。それが分かっただけでも今回の旅は大きな収穫だったではないか。
ラファエルは懐から小さな小壜を取り出した。
「ラファエル、そのような小壜ではエリクシールは危なくて持って帰れまい。」
ミカエルが口を出す。
「だってこれしか持ってこなかったんだ。まさかエリクシ−ルだとは思わなかったから…。」
口を尖らせてラファエルが言う。
「ところで、お前、サミュエル様とどんな賭けをしたんだ?」
いぶかしげにミカエルはラファエルを見つめた。
「それは、その…。」
口籠るラファエルはミカエルに押さえ込まれた。
「こら、白状しろ。抜け駆けは許さんからな。」
ヴェスタルトはぼんやりとその様子を眺めていた。そう言えばラファエル先生は大天使には憧れる方がただ1人いるのだと聞いた事があった。すごく遠い昔の事だった気もするが、実際はほんの数日前の事だ。今ならわかる。それはこの主なるお方、スラ・マリサナ サミュエル様なのだと。
この強くて弱いこの人を、本気で守ろうとさっきは思った。自分にどれほどの事ができるかわからなかったけれど。きっと大天使様も同じ思いなのだろう。アザリアンの様に水の乙女の恋人を持つ身でなお、守らずにはいられない…、恋愛感情以上の何かがある。今はそれが何かはわからないけれど。
「ヴェス。」
「はい!」
ぼんやりしていたヴェスタルトはふいにサミュエルに声をかけられて飛び上がった。
「エリクシールを壜につめるのを手伝ってちょうだい。」
「は、はい。」
でも、どうやって?とは聞かなかった。心から願えばできるのだ、と分かっているからだ。
〜創世の御名において、我が意に従わん。聖にして炎なる水よ、我の所に参れ〜
サミュエルはヴェスタルトの目の前で、そう言って手を広げて見せた。すると地面を突き破り、荒れ狂う炎の水が沸き上がり、ふいに現れた冷たい水晶の小壜に渦を巻いて流れ込んだ。そしてその水はすぐに静かになった。
続いてヴェスタルトが地面に向かって呟く。
〜創世の御名において、炎の水よ、我が主たるお方の元に参れ〜
再び燃え盛る炎の水が地の底から沸き上がった。そしてしゅうしゅうと音をたてながら、ふいに現れた琥珀の小壜に流れ込んだ。
「お見事。」
アザリアンがヴェスタルトにウィンクして見せた。
「あちち…。」
情けない声がラファエルの口から漏れた。ヴェスが詰めた壜を渡されたのだ。
「は!自業自得だ。抜け駆けしやがって。」
大天使様にしては口汚くミカエルが言った。以前自分が抜け駆けした事など忘れ果てて、ミカエルは本気で怒っているらしい。
その時、ガブリエルがアシルを連れて戻って来た。
「お待たせしました。」
アシルは何かを落っことした様にさっぱりした顔をしている。
「なんだか悪い夢から醒めた気がします。」
「彼の魂は救われたがっていました。そして彼は救われた。」
慈愛の籠った瞳でガブリエルは言う。アシルはどこまで分かっているかわからないが、彼は神の耳の元でガブリエルと対になる天使だったのだ。かつては仕える方は違ってもとても仲がよかった。
「しばらくすると、闇に囚われていた人々が戻ってくる。」
サミュエルはガブリエルにそう言った。それ以上は言ってくれるな、と言わんばかりにガブリエルはサミュエルを止めた。
「では私はここにしばらく残り、エリクシールで闇を焼いてから戻りましょう。」
「お願いできるかしら?」
「貴女様の願いとありますれば。」
恭しく礼をするガブリエルをサミュエルは頼もしく見つめた。
「ではアシルもそのお手伝いをしてもらえますか?」
サミュエルはアシルを見つめる。今までのような暗い陰は微塵も感じられない。
「はい!喜んで!」
サミュエルは先ほど自分がつめたエリクシールの壜をアシルに渡した。
「貴方にエリクシールを任せましょう。」
アシルは少し緊張した面持ちでそれを受け取った。
「その代わり一つお願いがあるの。私に青い薔薇を作って下さいな。」
アシルは少し戸惑った顔をしたが、小さく頷くと軽くルーンを唱えた。すぐに見事な青い薔薇が現れた。そして恐る恐るそれをサミュエルに差し出す。
サミュエルはそれをそうっと受け取った。アシルはそれを息をのんで見つめる。
薔薇の花はサミュエルの手に触れると嬉しそうに一瞬キラリ、と光った。しかしこの前の様に砕ける事はなかった。
「アシル、もっと自信をお持ちなさい。貴方はもう前の貴方ではない。もっともっと力を付けていつかあの子を救いましょう。」
「あの子?」
サミュエルはにっこりと微笑んだ。
「あの子は最期まで貴方の事を気に掛けていたのですよ。」
アシルは先ほどの記憶を辿った。青い炎に包まれて、そのスクリーンに何やら映し出されていたものをぼんやりと眺めていた自分。つい先ほどの事なのに、とても昔の事のような気もする。そう、ずっと見つめていた。闇に横たわっていた少女。あれはいったい誰?
だがアシルはどうしてもその彼女が思い出せなかった。
ぽん、とガブリエルの手が肩に置かれた。アシルは明るい笑顔で答えた。今まで見た事もないような笑顔だ、とラファエルは思った。
「あ!」
ラファエルは気がついた。アシルの魔道もまんざらではないではないか。
「私の方が一瞬早かったからな。」
サミュエルはヴェスタルトが詰めた琥珀の壜を、恐る恐る持っているラファエルに念を押した。
「さあ、天宮へ!」
サミュエルは皆を促した。もうじき日が暮れる。明日からはまた新しい日々がやってきて、今までとは違う日常がやってくるのだ。
帰りは悲しいほどにあっけなかった。サミュエルが空間を切り開き、あっという間に天宮に辿り着いてしまったからだ。ヴェスはこれでもうサミュアさんにもサミュエル様にも会えない日が来るのだ、と思うとひたすら悲しかった。
「そんな顔をしないのよ。」
サミュエルはすぐに気がついて、ヴェスタルトの頬を優しく触った。
「貴方はすぐに私の所に来るでしょう。それまで魔道の腕を磨きなさい。貴方が勉強に励んでいる時、私はいつも貴方のそばにいるわ。」
サミュエルは気がついていた。離れ難いと思っているのは自分の方だ。この純粋な魂をいつもそばにおいておきたいと願っている自分がいる。
「早くお育ちなさい。待っていますよ。」
別れ際、サミュエルはヴェスタルトにそう囁くと、そうっと顔を近付けた。ヴェスタルトはその瞬間まわりの状況も忘れ、その腕を掴んで唇を合わせた。
神の唇は人のそれとは違う…。ヴェスタルトはそれすら知らなかった。サミュエルの唇に触れる毎に何か自分に流れ込んで来ているのに全く気がつかなかったのだ。
サミュエルはぷいっと背を向けると、稲妻のような光を放って帰ってしまった。
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「ヴェス、どうしたんだ?最近変だぞ。」
心配そうにサンディがヴェスの部屋を訪れた。
「たまには俺の部屋にも顔だせよ。アルフも心配している。」
「ああ、うん。なんでもないんだ。」
ヴェスタルトはサンディに心配はいらない、と言う風な笑みを浮かべて答えた。
あの樫の木の村から帰って来てから、何となく生活が変わった。サンディとアルフは以前にも増して仲がいい。実は他の3人はエリクシールの炎に守られ、地底での事は余り分かっていないようであったが、ヴェスタルトだけは外に投げ出され、見知ってしまった。
サンディが剣天使、ミカエルの片腕であったフェルディエルの生まれ変わり、アルフが神の耳の大天使アルフェルの生まれ変わり、アシルも大天使アシレルの生まれ変わりなのだ、と。自分もイアンの魔道士に匹敵するアンスの称号を持っていたのだと言う。夢の中の出来事の様にも思えるが、あのミリエラが自分を獣王に捧げるため力を封印していたのだ、とわかった。何故サミュエル様の力でそれが解けたのかはわからないが。アルフも幼い頃何があったのか何となく分かった。餓鬼の一匹が母だと名乗っていた。
きっとそう言う事をサミュエル様に頼まれてガブリエル様が調べに行ったのだろう。
これらの事を全て受け入れるのに時間がかかりそうだった。自分はまだ本当に子供なのだ、と口惜しく感じる。じっくり自分の中で消化して整理するまで、あまり皆に会いたくなかった。
そして、もう一つ。ヴェスタルトは嬉しい力が身についているのを知ったのだ。学びの舎ではラファエルが今まで通り、基本の魔道を教えてくれた。ヴェスはそれを見事にこなす様になって、皆に驚かれた。いままで全くダメだった魔道がいきなり上手になったからだ。
皆その理由を聞きたがったが、ヴェスはいつも適当にはぐらかす事にしていた。ラファエルが助けてくれた事もある。
そして宿舎に帰るとヴェスタルトは自分の部屋に閉じこもった。もう少し高度な魔道を学ぶためだ。この勉強については誰にも話していなかった。
〜ただ今帰りました〜
ヴェスは目を瞑って瞑想する。
〜おかえりなさい。ヴェスタルト。今日はどんな日でしたか?〜
〜転送の魔道を学びました。サンディは相変わらず枕を運んでましたが〜
くすくす、という笑い声が聞こえた。
〜では今日は貴方に闘いの魔道を教えましょう〜
びくっとヴェスタルトは身体を固くした。
〜これから自分の身は自分で守らなくてはいけない時が来ます。防御と攻撃と。貴方はそれを知らねばならない〜
ヴェスタルトはこうやってあの日以来毎日の様に、サミュエルから直接魔道をならう事ができた。そう、別れ際ヴェスタルトに流し入れたのは、この秘密の約束だったのだ。
〜毎晩私に心を飛ばしなさい。貴方はたくさんの魔道を勉強する事ができるわ〜
ヴェスタルトは腰をあげて、サンディに言った。
「ね、次の休暇はサミュエル様に会いに行こうよ。」
唐突に大胆な提案を聞き、サンディはあんぐりと口を開けた。
終わり
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