〜12〜

あの時…、とラファエルは回想する。

この天宮がただの一度戦乱に乱れた時があった。我主なる神の左目 サミュエルと、その分身であり片割れである神の右耳 シルヴィルムとが闘いに身を投じた時だ。もともと仲のよい2人であったが、何かに取りつかれた様に戦が起こった。

それまではサミュエルに仕える大天使はミカエル、ガブリエル、ラファエル。魔道士の長はアザリアン。シルヴィルムに仕える大天使はマリエラ、アルフェラ、アシレラ。魔道士の長はナーシアンス。それぞれが仲良く過ごしていたものだ。

あの闘いの後、シルヴィルムはサミュエルに討たれ、自ら命を絶って後を追ったのがマリエラ、何処ともなく姿を消したのがアルフェラ、アシレラ、ナーシアンス。彼らがどこに身をひそめているのかはわからなかった。サミュエルの力を持ってしても、見つけだす事が出来なかったのだ。ただ、マリエラの残した不気味な一言が状況を物語っていた。
「我々の粛清は終わった。私はあのお方を決して裏切らず、我々は常にあのお方にのみ忠誠を誓っているのだ。」

サミュエルは自らが引き起こしたこの凄惨な出来事をどれほど悔いた事だろう?だがいくら悔いてみても泣いてみても、元に戻す事は出来なかった。
「剣天使を転生させなさい。」
ミカエルはサミュエルに内緒で、そうアザリアンに囁いた。
「自ら命を絶ったものでなければ、必ずこの天宮に転生為さる事だろう。神の事はわからぬが、アルフェルもアシレルもナーシアンもこの天宮に転生してくる。彼らを守るため、剣天使を転生させるのだ。」

「そう言う事でしたら私が。」
名乗り出たのは炎の様に燃える瞳のミカエルの片腕、剣天使フェルディエルだった。
「行ってくれるか?フェルディエル。」
「もちろんでございます。」
「なれば私も手助けいたしましょう。何かできる事があれば。」
「私も。」
数名の天使や魔道士が名乗りをあげた。

「ありがとう、ではその肚を借りる事といたそう。アザリアン、頼んだぞ。」

あれから長い長い年月が過ぎた。だが、彼らが転生したと言う際だった徴は見当たらなかった。ほんの先ほどまでは。

ラファエルはこの暗闇の中ですら物おじする事なく毅然としている子供達を見つめた。

再びあたりにはわらわらと餓鬼が集まって来ている。これらの連中はどこからやってくるのか、限り無い様にも思われた。今度はアザリアンが還元の魔道を唱えるべく手を広げた。

「まあ!アルフェラ様!」
その餓鬼の一匹が青白い炎に守られているアルフに駆け寄るのが見えた。そしてそれをガブリエルが跳ね返そうと立ちふさがる。しかし、餓鬼はこれを悠々とかわしてアルフの元に飛びついた。
「ぎゃあ!」
その瞬間、アルフを守っている青い炎が餓鬼を焼いた。
「我はそなたの母ぞ。」
餓鬼は口から泡を吹きながら叫んだ。
「この闇の身体を隠し、そなたを産み育てたは何のためぞ。女子に生まれよったアルフェラ様を男にしてさしあげたは誰ぞ。この母をこのような目に合わせて、ただですむものか。」
餓鬼は再びアルフに飛びかかった。そして再びエリクシールの炎に焼かれた。
「目覚めよ、闇天使アルフェラ!目覚めて後、獣王様にお味方するのじゃ!」
断末魔に似たうめき声で餓鬼はそう言うと、ついに燃え尽き灰になった。

サミュエルは自分のまわりに時間シールドを張った。この空間はすでに別の次元の時が流れている。どんなに時間がかかる戦でも、このシールドの外から見れば一瞬の出来事でしか過ぎないのだ。
「来い。」
サミュエルはすっかり形がはっきりとした獣王に向かって言い放った。
「ふ、気狂い龍が!」
サミュエルは獣王の嗄(しわが)れたその声を聞き、一瞬呆然とした。気狂い龍だと?

〜どうなさったのです、愛おしいサミュア。まるで今のあなたは気の違った龍のようではありませんか〜
戦が始まったばかりの頃、シルヴィルムはサミュエルにそう言った。
〜今度ばかりは許せぬ。この世界を統べるのに2柱はいらぬ。敗れた方が他の神々の所に帰るのだ〜
〜なら、私が帰ろう。闘う必要はない〜
〜いや、より相応しい方がここに残るのだ〜
〜サミュア…〜
〜私は気狂い龍でけっこう〜

嫌なものを思い出した、とサミュエルは思った。若かりし頃のただ一度の過ちの闘い。だが獣王はいつもその過ちを自分に思い起こさせる。もしかしたら獣王とはそれを思い起こさせるために、自分の元に遣わされて来ているのではないかと思われるほどに。

分かっているのだ。あの時何故あの些細な言い合いから大きな闘いになったのか。それはこの世界を任されたサミュエルの自我の目覚めであった。もともとは一柱の神の部品の一つであった神の目と耳。だが分裂して久しい。自分とは何か、そして何故存在をするのか。そう思って内に籠る日々が続いた。自分の分身である神の耳を見る度にどちらかが滅びねばならないと強く思った。自分が自分であるために…。

サミュエルは闘いによってどちらかが滅ぶべきと考え、シルヴィルムは自分がサミュエルに譲ろうと考えた。そして闘いにより多くの同胞を無意味に失った。

サミュエルは獣王に斬り込んだ。思い返せば何故獣王を倒さねばならないと思っているのかも良くわからない。ただ彼の作ろうとする世界が受け入れ難いものであるからだ。闇の世界、暗黒の法律。人々は飢え、痛み、異形のものとなり徘徊する世界だ。だがそれが彼らにとって幸せであるなら、今自分がしている事は何だろう?

失ったものがあまりに大きすぎて、その責任を感じる余り視野が狭くなってはいまいか?

良くわからない。サミュエルは時おり恐くなる事がある。シルヴィルムと闘ったあの時や、獣王と対峙する時、自らが自らで無くなる感覚がするのだ。自分を支配するなにか大きな力が働いているような気がする。この世の全てを支配しているのはこの自分のはずなのに。自我と名付けてみたが、それは体の良い言い訳な気もする。

「悔恨こそ闇の感情。」
獣王はほくそ笑んだ。この高慢な女は何故か自分と向かい合うと、こうやって闇の感情に支配されるのだ。それは大変愉快な事であった。だが同時に大変不快な事でもあった。強く惹き付けられるこの感情は何だろう?獣王はサミュエルと向かい合う度に自問する。誰にも触れさせたくない。自分1人のものにしておきたいのだ。何故こんなに大切なのだろう?
「闇の感情に囚われている貴様には、俺を倒す事など出来まい。」

「我、主なるお方に味方す。闇よ退け!」
そのようなつぶやきがヴェスタルトの唇から漏れた。もちろん、ヴェスタルトの知る言語ではない。古の香りのする創世記のルーン…。ヴェスタルトは目の前に敵と対峙しているサミュエルに向かって感情のほとばしりをぶつけただけだった。ぴくりとも動かないサミュエルに向かって。

〜ワレ、シュナルオカタニミカタス〜
サミュエルにそんな声が届いた。そして温かな光が身体を包む。やや黄金に輝く弱々しい幼い光ではあるけれど、サミュエルの誇りを取り戻すには充分だった。

サミュエルは持っていた剣を何の躊躇も見せずに獣王に振り下ろした。

獣王の闇色の甲冑の兜が破壊されて、ゆっくりとその素顔が現れた。
「ま…さか…。」
闇の呪縛を断ち切り、剣を振り下ろしてくるとは…。

目を見開く獣王の顔を見てサミュエルは驚愕の表情を浮かべていた。それはかつて愛し、憎み、今現在失った事を悔恨し続けている神の耳、シルヴィルムの顔だった。

いや、全く想像していなかった事ではない。だが、そうあって欲しくない唯一の顔でもあった。サミュエルはとどめをさすのも忘れ、その顔を見つめたまま呆然と立ち尽くした。
「また逢おうぞ。」
獣王ルディリスは手にした剣を自分の胸に突き立てた。そしてその身体からは青い炎が吹き出した。そしてあたりの闇はその炎に照らされ、粉々に砕け散った。

「スラ・マリサナ。」
サミュエルはミカエルの心配そうな声で我に返った。いつの間にか時間シールドが解け、元の世界に戻って来ているのに気がついた。
「ミカエル…。」
「どうなさいました?獣王は?」
サミュエルは力なく首を横に振った。
「再び取り逃がしてしまった。いつもの様に自ら命を絶って消えた。またしばらく後に闇の帝王として復活してくるだろうな。」
「そうすれば時間が稼げます。それまでに新たな頼もしい仲間を育つでしょう。」

いつもそうだ、とサミュエルは目を閉じて思った。何故あの時躊躇したのか。何故獣王がシルヴィだったのか。驚いたが何故か安心した気がする。それは自分自身である神の耳の魂の居所を確認したためか、自分の罪が確定したためか…。シルヴィが闇に堕ちたのはサミュエルがとどめをさすその前に自ら刺した剣の傷で絶命したためであろう。狂おしいまでの慕う気持ちも、彼が獣王であるなら説明がつく。自己に対する愛に過ぎない。

そして自己の一部を殺した自分に下された罰は孤独感…。決まって獣王と闘った後には耐えられないほどの孤独感に襲われた。今もそうだ。跪いているミカエルにこの身を委ね、この場で眠りにつきたい衝動に駆られる。だがそんな事は許されまい。

ミカエルは顔を赤くして俯いた。いつも闘いの後、必ずスラ・マリサナは愛おしそうに自分を見つめる。このまま抱きしめてしまいたいほどに弱々しげな表情で。だが、それは自分を誘っている訳ではない事を知っている。何故なら一度…。いや、これ以上は思い出すまい。ミカエルはゆっくりと立ち上がった。

あたりはエリクシールの炎に照らされ、清らかな青い光で満ちていた。見ればその燃える炎の元には、弱々しげに身体を横たえている女が見えた。もうほとんど無くなった闇に身体を半分溶かし、目を凝らさなければ見えないほどに陰が薄くなっている。きっとこれが見えているのは自分とミカエルくらいのものだろう、とサミュエルは思った。
「ミリエラ、いや、あなたは大天使マリエラ、マリエルですね。」
サミュエルはマリエルの元に膝をつき、覗き込んだ。
肩の傷口からどくどくと炎を吹く水を流れ出している。
「サミュエル様…。」
その恍惚とした表情は、どこか絶望感に満ちていた。
「我が君様は何処に…?」
「もう、よそう、マリエル。どうか私と共に光の中で生きてくれまいか?この世界を共に作ろう。アシレラもアルフェラもナーシアンスもいる。直ちに癒しの魔道を…。」

手を自分に向けて差し出そうとしたサミュエルにマリエラは力なく微笑んだ。
「私はあのお方のもの。貴女様がお捨てになったあのお方に全てを捧げた天使でございます。この聖水のおかげで記憶が蘇りました。私はシルヴィルム様に殉じた大天使マリエラ。せめて私だけでもあのお方についていてさしあげとうございます。私の身体と樫の木の中にエリクシールがございます。確かにお返し申し上げました。どうか、その水でアシレラをお救いください。」
言い終わった瞬間、マリエラは懐から短剣を取り出し自らの胸を突いた。ほんの一瞬の事であった。
「マリエラ…。」      

「あの…。」
サミュエルは恐る恐る声をかけるヴェスタルトに気がついた。ヴェスタルトには今のミリエラの最期は見えなかった様だ。それに安堵しながらも、いつの間にかエリクシールの保護下からぬけ出ているのに気がついた。そしてこの声は、あの闇の対峙に聞いた『ワレミカタス』の声と同じではないか?
「そなたは…?」
「ナーシアンスでございます、スラ・マリサナ。」
脇からアザリアンが進みでてそう言った。アンスの魔道士、神の耳側の魔道士の最高の魔道士の総称だ。
「我が盟友、ナーシアンスです。あの創世記のルーンはそうそう操れるものではございません。やっと見つけました。彼こそアンスの魔道士の長だった、ナーシアンスです。」
ヴェスタルトは怯えたような顔でアザリアンとサミュエルを見つめた。どう言う事か把握出来ない。だが大変な事が起こっているような…。ナーシアンスって誰だろう?

不安そうなヴェスタルトにサミュエルは優しく微笑んだ。アザリアンに頷いてみせてから、唇に人さし指を当てて言葉を切った。そしてヴェスタルトに向き直る。
「あなたのお陰で私は助かった。感謝します。あなたはこれからとっても魔道が上手になるわ。」
サミュエルはその白い手をヴェスタルトに差し出す。ヴェスタルトはどうしたら良いものか戸惑いながら、その手をとった。
〜あなたの望みを叶えましょう。誰かに迷惑のかかるものでないならば、3つ願いごとをおっしゃいな〜
いつもの沸き上がるような心に響く声が優しく聞こえた。
〜3つ…?〜
ヴェスタルトは考えた。望み、望み。いっぱいありそうで、余りなさそうだった。
〜まず、僕はこの4人の友達といつまでもいっしょに仲良くしていたい〜
〜わかりました。学びの舎を卒業する時に必ず天宮に招きましょう〜
〜あなたにもう一度逢いたい〜
〜では、その時に私を訊ねていらっしゃい〜
ヴェスは考えた。後一つ。本当の望みはサミュアさんとずっと学びの舎で学びたい。下級天使の赤いリングをはめた、あのサミュアさんと…。
〜後一つは?〜
急かせる様にサミュエルは言った。だがヴェスは迷っていた。それを言ったらきっとこの人は困ってしまう。
〜キスしたい〜
ヴェスタルトは自分でそう言い、自分で驚いた。そしてその望みは一番強いものである事を初めて自覚した。心臓の音がタクタクと聞こえる。

スラ・マリサナ、この世を統べる女神、サミュアさんではないんだぞ、そう言う声が自分の耳元で聞こえる様だ。だが、その美しい顔が自分の顔に近づいて来て、微かに薔薇のような良い香りが鼻をくすぐった時、ヴェスタルトはそんな些細な事はどうでもよくなった。

とび色の瞳が目の前で閉じられる。自分の方がわずかに背が高い。そして気がついてみるとヴェスタルトはサミュエルの肩に手を回し、その整った唇に自分の唇を押し付けていた。

                      (続く)