『ゲームオーバー(中)』 <PREV NEXT>
……作った料理の半分が、きょうも自分の存在価値を見いだせないまま、三角形のネットに滑り落ちてゆく。
事務所へ仕事の続きをしに行った先生を見送ってから、わたしは食器を流し台へ運び、後片付けを始めていた。
やっとわたしの胸に届くぐらいの小さな冷蔵庫に載ったサイフォンが、ときおり湿った音を立てて、黒い液体をポットに流し込んでいる。
時刻は10時を回った頃だ。夜遅くにコーヒーを飲むのは身体にもあまり良くないことだろう。けれどこれは、わたしが空木事務所に助手として入った頃から変わっていない習慣のひとつ。
あの頃に比べたら別世界のようにかたちを変えてしまったこの事務所で、こんな悪癖だけが相変わらずを保っていられるのも、皮肉な話だと思う。
このコーヒーを空木先生に飲んでもらえば、きょうのわたしの仕事は終わり。いつもの通り終電の前に帰宅するだけだ。
……すこし考えて、いったん閉めた戸棚からもう一客カップを取り出した。
パソコンのディスプレイに調査報告書の内容を打ち込んでいた先生は、わたしが持ってきたトレイに載っている二人分のコーヒーを見て一瞬驚いたように目を見張ったが、やはりなにも口に出さなかった。
「ありがとう」かるく眼を細めて笑うのが先生の癖。
直哉くんがいなくなってから同じ笑い方ばかりしているのに、先生は自分で気付いているのだろうか。
「珍しいね、あゆみちゃんがコーヒーを飲むなんて随分久しぶりじゃないか?」
「そうですね、先生がいつもブラックだから、ミルクの場所が判らなくて。仕方がないからお客様用のを使っちゃった」
先生のデスクにカップを載せると、わたしは自分のカップをテーブルに置き、接客用のソファに掛けた。
空木先生が濃いコーヒーを好む反面、直哉くんは砂糖とミルクをたっぷり入れて、カフェオレみたいに甘くしてしまう。わたしはお付き合いで頂くときはいつもミルクを入れていたけれど、普段は滅多に飲まない。だからひょっとすると、所員用の砂糖とミルクは自分で捨ててしまったのかもしれない。
「ずっとお仕事続きですね、先生こそすこしは休まないと、お身体に障りますよ」わたしは微笑った。たぶんうまく笑えたと思う。「来週の日曜日にでも、気晴らしに何処かへ行きませんか?」
コーヒーに口を付ける。白い陶器のすべらかな感触。褐色に薄められた液体は、わたしの舌にはまだだいぶ熱い。
「日曜か……うーん、ごめん。その日は一日調査が入っちゃってるんだ」椅子ごと先生は振り向いて、考え込むような仕草を見せた。
芝居がかった調子で大げさに肩をすくめる。初めからそう答えるつもりだったのは眼を見なくても判った。尋ねる前から予想が付いていたことだ。
「そのうちまとめて休みを取るよ。いまはいろいろ忙しくて、暇がないんだ」
……たぶんその日が来ることは、永遠にないと思った。
『昔ね、同じように大切な人を亡くしたよ』
お葬式を終えて戻ってきた事務所で、空木先生は力なくわたしに言っていた。
『僕が私立探偵を始めたのはそれがきっかけだった。……おかげで君たちに会えたんだから、悪いことばかり続いた訳じゃない。ずっと、そう思っていたのにな』
先生の過去の話を聞いたのは、それが最初で最後だ。
わたしも同じ事を思っていました、と答えたことだけは覚えている。
わたしが直哉くんと出会ったきっかけも殺人事件だった。大切な高校の親友を失った代わりに、空木探偵事務所と出会い、助手として新しい道を歩んでいけると思った。
空木先生が誰を亡くしたのかは知らない。わたしが訊くべきではないことだと思ったから。
ただ、洋子が死んだとき、ぼんやりと考えたことがある。
泣くことが出来るだけ、幸せなのだと。少なくとも泣いて忘れられる強さは、まだわたしの中に残されていると信じていいのだと。
わたしはもう同じものを築けない。
……一度崩れた砂の城を、造り直す途中で波にさらわれたら。
先生もそうなのだろうか。
かろうじて残った城壁が綺麗に砂に戻ってしまうのを、待っているだけなのだろうか。
「先生」わたしは声をかけた。
「ん?」口許だけを笑わせて先生がこちらを見る。
「先生は、わたしに助手を辞めて欲しいと思ってらっしゃるんですか」
笑みが消えた。本当にわずかな一瞬だったけれど。
「いきなりどうしたんだい、あゆみちゃん」
空木先生は誤魔化すようにカップの中身を口に含む。先生と面識のない人なら騙せても、わたしにその嘘は通じない。
……直哉くんなら声だけだって見抜けるだろう。ずっと側にいたんだもの。
「急にお仕事の量を増やしたり、断っていた依頼まで引き受けるのは、そのせいなんでしょう」
沈黙が落ちる。先生が表情を曇らせて、はじめてわたしをまっすぐに見る。
「……そうだね」先生は呟いた。
「確かにそうだ。そういうところがあったのは認める。……助手も君ひとりになってしまったわけだし、女の子に単独で調査をさせるのも、危険すぎるから」
「わたし、辞めません」
先生の視線をしっかりと捉えてわたしは言い放つ。「絶対に辞めませんから」
わたしが事務所を出ていって、空木先生はまたひとりになって。
出会う前の生活に戻ったところで、直哉くんが居た事実を無かったことには出来ないのに。
「解ってる。君は絶対にそう言うと思ってた」
わたしの眼をしずかに見つめて、先生はとても弱々しく頷いた。
「でも、もし君がここに居る理由が、純粋に探偵の仕事をしたいからじゃないとしたら、上司として命令する。いますぐここを出ていって欲しい」
……もう僕と直哉くんに縛られている必要はないんだよ。
そう続けて先生は気まずげに背を向ける。仕事の続きに没頭することで、わたしの返事を曖昧にしてしまいたかったのかもしれない。
キーの押し込まれる小さな音がかたかたと静寂に融けた。
とてもとても長い間、それを聞いていたような気がする。
そしてわたしは口を開いた。
「縛られてなんかいないわ」
「……え?」先生が振り向く。
「わたしはずっとここに居ます。何処にも行きません。自分でそう決めたんだもの」
「いつまでもここに居るわけにはいかないんだ、それは解っているんだろう」
どうしてですか。直哉くんがもういないから?
「探偵を続けたいのなら事務所を移ればいい。君には三人でいた頃の記憶が重すぎるよ」
それでも、この場所に先生は留まるつもりなんでしょう?
「僕の事務所だからね。でも君にはそうじゃないだろう。仮に僕がいなくなったとして、それでもここに残るとでも言うつもりかい?」
──だったらさ、あゆみちゃん、僕と結婚するって言うのはどう?
空木先生の向かいのソファ。
いつもの場所で特別甘いコーヒーのカップを抱えた彼が、冗談めかしてあっさりと言う。
『えっ、ちょ、ちょっと。からかわないでよ、直哉くん』
本気なはずがないと解っていたのに、どうしてあんなに焦ってしまったんだろう。
──そしたら結婚退職の心配は無いじゃない。歳取ってもふたりで探偵やってけるし。
『うん、それいいね。ふたりが結婚して子供を産んでくれたら、空木事務所の二代目所長は決定だ』
まるで子供みたいな表情で先生が微笑った。
──ええっ、じゃあまさか、所長の座はぼくには譲って貰えないって事ですか?
『あゆみちゃんがいるのにそんな不公平なことは出来ないよ。喧嘩しないで決められるのかい?』
──そんなあ、ぼくは小学生以下ですか?
誰に誓ってもいい。
わたしは空木先生と直哉くんを、『男』として見た事なんて一度もなかった。
これからだってそうだろう。
ふたりとも気が付けばいつも側にいてくれたのだから。
家族のように。……それこそ、空気のように。
「……それなら、先生が結婚してくださればいいんです。わたしと」
半分は冗談だった。残りの半分が本気だったかどうかは別にして。
滑稽なほど唐突なタイミングで空木先生はキーを打つ手を止め、わたしに顔を見せないまま、ばつが悪そうに一言だけ言った。
「君と僕の年齢差があと10年縮まったら考えるよ」
わたしは笑った。それもそうですね、と。
笑わなければ涙を零しそうだったから。
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