合言葉は正義
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『ゲームオーバー(前)』

 窓とビルとに切り抜かれた青い闇が、眩しすぎるほど遙かに遠い。
 事務所から見上げた空をこんなに高く感じることがあるなんて。
 わたしは今日も空木探偵事務所に足を運んでいる。
 電車でふた駅の高校へ通う前。放課後。休日にはそれこそ早朝から日が落ちるまで。
 ……あの夏の虚構じみた記憶とは反比例に、わたしが事務所に留まる時間は徐々に体積を増してゆく。
 それは探偵助手という仕事のためでもあったし、「誰もいない空木事務所」というあたりまえの概念に対する抵抗を、わたし自身がいつまでも拭い去れないせいでもあった。
 いまでも時々錯覚する。
 ウォームグレイのスチールドアを開けたその向こうで、書類に目を通す彼の後ろ姿。
 いつも少し遅れてドアの音に気付き、驚いたように振り返って彼は笑うのだ。
 ──おかえり、あゆみちゃん。
 わたしもつられて笑顔を返す。
 ──ただいま。
 ──ただいま、直哉くん。
 もう答えてくれる人は、どこにもいないと知っていたけれど。


 直哉くん。


 探偵助手として2年を共にした高田直哉の訃報をわたしが聞いたのは、8月の半ば。うっとうしいほど蝉の声が響く蒸し暑い夏の日だった。
 とある資産家の屋敷で起きた当主の不審死を調査中、彼は連続殺人事件に巻き込まれたのだ。
 ここでその事件のことを詳しくは語らない。わたしも彼の調査を手伝っていたから事件の顛末は良く知っているけれど、いま、それを語ることに大きな意味はないと思うので。
 記しておかなければならない事実はひとつ。
 彼が真犯人の手に掛かり、永久にこの世を去ったことだけ。
 関係者のひとりが現場にやってきたときには、もう手遅れだったのだという。どうしてもっと早く駆けつけてやれなかったのかと、空木先生とわたしの前で彼……和人さんと名乗った……は、涙を流しながら幾度も頭を下げた。
 流れ出る血に胸を赤く染めて倒れる直哉くんを見たとき、一体彼は何を思ったのだろう。
 ……わたしに解るはずもない。
 結局犯人の逮捕によって事件は幕を閉じた。
 あれから和人さんには会っていない。彼がどうしているのかも、大量の死者を出したあの家がどうなったのかも、わたしたちにはもう、どうでもいいことだった。


 直哉くんがまだ事務所にいた頃から、空木先生の帰宅は夜半を過ぎることが多かった。……空木事務所の所員が二人きりになってから、それはますます顕著になったように思う。
 誰に強制されたわけでもないけれど、そんな先生を電話番と書類の整理をしながら待つのが、いつからかわたしの習慣になった。
 ときどき、高校の友人が制服のまま顔を見せに来てくれることがある。友人を相次いで亡くしたわたしに、彼女たちはいつも痛々しいほど優しい。
「ひとりで抱え込んでないで、ちょっとは相談しなさいって」「ねえ、今度の休みにどこか行こうか、息抜きに」「文化祭の準備、無理して残んなくてもいいんだよ。あたしらで何とかなるからさ」……
「もう、さ。辞めちゃいなよ、あゆみ。……こんなときに、こんなところにひとりで居ちゃ駄目だよ」
 そのたびに言い訳がつらくなっていく。


 九時を過ぎるとわたしは遅い夕食の支度をする。
 事務所の続き部屋にある台所で、野菜を軽く炒めながら。夕方買ってきた魚をグリルで炙る。
 空木先生に拾われてここに暮らすようになってから、ずっと直哉くんが作っていたように。
 先生はもともと家事の苦手な人だから、外で食事を済ませてくるのはいつものことだったと聞いている。だから住み込みの助手の直哉くんがいなくても、本当は食事の心配なんて要らないのかもしれない。
 それでもわたしが毎日遅くにここに残るのは、きっとわたし自身が『直哉くんを失った先生』に、つまらない幻想を押しつけているからなのだと思う。空木先生を放っておいたら、いつかなにも口にせずに死んでしまうかもしれないと、自分のなかで信じていたいだけなのだ。
 隣室でドアノブのきしむ金属音が聞こえた。
 わたしは魚を菜箸で裏返してから、事務所へ続くダイニングのドアを開けに向かう。
「お帰りなさい、先生。今日はお早かったんですね」
「ああ、ただいま」
 早速デスクに鞄の中身を広げていた空木先生が微笑む。
 食事をとるとき以外で、わたしが仕事をしていない先生を見ることも、最近はほとんどなくなった。きょうもわたしが帰るまで、ネクタイさえ緩めずに机に向かい続けるのだろう。
「……と言いたいところだけどね、いつもこんな時間まで女の子が残っていたら心配されるよ。もういいから早く帰りなさい」
「ところが、残念ながら夕食の支度をきちんと済ませて、先生にそれを綺麗に食べてもらって、あとをきちんと片付けないと、とても帰れそうにないんです。そういう呪いが掛かっちゃったみたい」
 わざとおどけてそう言うわたしに、眼を逸らしたまま先生は呟いた。
「……本当に、もういいんだ。僕なら大丈夫だから」
 なぜか、前に訪ねてきてくれた友達の言葉を思い出した。
 ──あゆみが全然平気じゃないときに限って大丈夫って言うの、みんな解ってるんだから。


 直哉くんが死んだと聞かされたときも、お通夜の席でも、お葬式のときにさえ。
 わたしと空木先生は、とうとう一度も涙を流さなかった。
 よそよそしい白木の棺のなかで目を閉じた直哉くんの顔が、どうしても他人のものにしか見えずに。
 飛ぶように出張から舞い戻った空木先生に肩を支えられながら、わたしは誰かに騙されているんじゃないかと、馬鹿げたことを幾度も思った。
 小さな祭壇に置かれた色のない遺影。周囲を飾った花輪の色に引き立てられて、残酷なぐらい生き生きとして見えた直哉くんの笑顔のレプリカ。
 これを撮ったのはついこの間のことだったじゃない。先生と直哉くんとわたしとで、久しぶりに休みをとって植物園に出かけた、あのときだってこんなに元気に笑っていたじゃない。
 嘘。
 これは嘘なんでしょう。
 直哉くん。
 そう、いずれ八束町の墓地にご両親と一緒に眠ることになる無機質な骨壺の前でまで、わたしは同じことばかり考えていた。
 ……これは良く出来た夢の切れ端なのだ。そんなあり得るはずのない奇跡を望んで。


 出来上がった食事をふたりきりで囲んで、先生とわたしは無言のままテーブルにつく。
 わたしはあまり料理が得意な方じゃない。孤児院にいた幼いときから一通りの食事を作れるようになっていた直哉くんと違って、昔から不器用なので失敗も多かった。
 だから空木先生の助手になってから、休日の夜には必ず事務所の台所に立った。わたしよりずっと上手にキャベツを刻む直哉くんを見よう見まねで追いかけて、時には家でこっそり何度も練習して、なんとか煮物ぐらいはまともに作れるようになったのだ。
 空木先生の嫌いなものは、タマネギと梅干し。
 直哉くんの嫌いなものは、人参とセロリ。
 二人の好きなものも、嫌いなものも、気が付いたら全部覚えていた。
 ……いまでもサラダにセロリを入れられなかったり、人参を思い切り細かく刻んでしまう理由は、もう、あまり考えないようにしている。
 ──そんなことないよ。あゆみちゃん、きっとぼくより料理の才能があるんだ。
 戻ってこない人のことを考えて泣くのは嫌。
 はじめて自分に父親がいないことを聞かされて、死んでしまいたくなるほど悲しかった幼い頃。
 あの頃のことを繰り返すのはもう嫌だ。
 ──だってぼく、きょう生まれて初めて人参を美味しいと思ったんだから。


「君は少し休んだ方がいいよ、あゆみちゃん」
 出来上がった夕食をふたりきりで囲んで数分も経たないうちに、何の前触れもなくそんな言葉が飛んだ。
「どうしてですか」
 義務を果たしてでもいるかのように料理に箸を付ける先生に、わたしは声を抑えて答える。
「学校と助手のお仕事はきちんと両立できているつもりです。わたしに悪いところがあるなら、遠慮しないで仰ってください。気を付けますから」
「……そうじゃない」
 先生は俯いて食卓の一点を見つめた。
「ただ……ね、最近の仕事は、少し君には荷が重いんじゃないかと思うんだ」
 その先生の顔を見上げてわたしは考える。
 最近の仕事。それが遠回しにわたしを助手の仕事から遠ざけようとして引き受けられたものであることは、わたしにだって解っていた。
 昇進を控えた同僚を失脚させるために弱みを握って欲しい。離婚の慰謝料を少しでも払わずに済むように、妻の不貞の現場を押さえて欲しい。……好意を抱いている男性に恋人がいる、その相手がどんなに嫌らしい女か彼に教えてやるために、何でも良いから証拠を突き止めて欲しい……
 刑事事件の調査が入っていない暇なときにだって、先生は一度としてそんな依頼は受けなかった。『そうした仕事もビジネスにはなり得るけれど、君たちにはまだ酷すぎると思うから』いつだったか持ち込みの依頼を断ったとき、何事もなかったように笑って言った空木先生。
「辛いだなんて思いません。仕事ですから」重苦しい紺色のスーツが語る無言の拒絶。「空木先生が良いと思って引き受けられたことなら、それをお手伝いするのが助手のつとめです」
 先生が「そうか」と言って黙り込んだそれきり、わたしたちは一言も口を利かずに食事を終えた。
 閉め忘れたブラインドの奥では、わだかまった闇を光の喧噪が彩っている。水族館の地下水槽のなかで、死んだ眼をして回遊する熱帯魚に見つめられているような気分だった。
 もしかしたら、水槽のなかにいるのは、空木先生とわたしのほうなのかもしれない。


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