『ゲームオーバー(後)』 <PREV
空木先生にはなにも言わずに、ひとりで八束町へお墓参りに出かけた。
あれからも先生の仕事の量はいっこうに減らない。
『助手の子が亡くなって一時はどうなることかと思いましたけど、さすがは空木先生ですね。もうすっかり立ち直ってらっしゃるようで、捜査にも一段と力を入れてくださってるんですよ』
ときどき事務所に立ち寄る所轄署の刑事さんはそんなことを言っていたけれど、わたしにはそれがひどく怖かった。
こころか、からだか。
どちらが先に壊れるのか、先生が自分の身体で試しているように見えたから。
外国のひとみたいに薄い色の眼を細めて、笑ったふりをつづけたまま、いつか先生も私の前からいなくなってしまうのかもしれない。
そう考えるのがたまらなく怖かった。
遠山家之墓、とある。
高田という直哉くんの名字は、助手になってからの彼が使っていた偽名だったらしい。中学を卒業するまで、彼はずっと戸籍上の名前である、遠山直哉を名乗っていたのだという。
家出中の身だったから本名をあからさまに口にするのは気が引けたんだろうね。……直哉くんが死んだとき、そんなふうに先生は言っていた。
トオヤマ、ナオヤ。
わたしの知らない名前。
見慣れない名字がしっくりこないせいもあるんだろう。それとも、気が遠くなるほどの間漂い続けていつしか染みついた、お線香の静かな香りがそう思わせているんだろうか。
この土の下に、数ヶ月前までは隣で笑って話していたはずの友達が埋められていること。その事実がひどくリアリティとかけ離れて、わたしとは関わりのない世界に起きた出来事のようにみえる。
そんなわたしをかろうじて現実に繋ぎ止めているのは、苔色にくすんだ墓石の側面にくっきりと刻み込まれた、真新しい故人の戒名だけだった。
戒名。死亡年月日。享年。その下に、名前。
ひとつ右には、ユリ。その先には、隆雄。……直哉くんの本当のご両親。
左側にはこれから……もしも連ねられる人間がまだこの世にいるとしたなら……彼の名の隣に刻まれるだろう、未来の故人の名前が空白のままその時を待っている。
縋り付くように手向けの花束を握りしめて、彼は幸せだったのだ、と思い込もうとした。
孤児だった自分の生まれを知ることが出来た。ご両親は亡くなっていたけれど、ふたりとも彼を愛していたと確かめることが出来た。
最後の最後に、同じ場所で眠ることが出来た。
「……そんなことが何になるの」
無意識に呟いた否定の台詞。
不意に花束を叩き付けてしまいたくなって、わたしはお墓から視線を遠ざける。
彼は幸せだったのかもしれない。
でも、わたしは。空木先生は。
あなたがどこの誰でも良かったのに。
──ぼくはそう簡単にはやられないさ。
……ほんとうの終わりのときにまで、あなたは、それを、信じていた?
※
「……まったく、なんだよこれ。どうしてぼくが殺されてなきゃいけないのさ、あゆみちゃん」
テーブルに置かれた紙束にそこまで目を通し、高田直哉はいかにも憤慨した様子であゆみにそう言った。
「ごめんね。でも、現国の授業に創作文の課題が出るなんて思ってなかったんだもの」
あゆみは紅茶を置いたばかりのトレイを抱えたまま、くすくすと笑って舌を出す。
「だからって、なにも練習台にこんな怖い話を作らないでくれよ。読んでる途中で、ほんとにあのとき死んでたんじゃないかと思った」
直哉は溜息を付いた。ものすごく情けない表情だ、とあゆみは思ったが、それは本人には黙っておくことにする。
「でも、これが本当の出来事じゃなくて良かっただろう?」ソファに腰掛けてティーカップを口に運んでいた空木が言った。「もっとも助手が死んだせいで人生を捨てるほど、僕は繊細に出来てないと思うけどね」
「本当だったら大変ですよ」紅茶を勢いよく啜って直哉が答える。
「……でも、犯人のナイフがあと数センチずれてたら、こういうこともあったのかもしれないなあ」
神妙な顔つきになって顔を伏せた同僚に、あゆみは慌てて弁解した。
「なに言ってるのよ、そんなことある訳ないじゃない。直哉くんは助かったんだもの」
「それもそうだけど。……こんな風に書かれたら、やっぱりいい気持ちはしないなあ……この心の傷は、夕食にあゆみちゃんの手料理を食べないと治りそうにないな」
「ご、ごめんなさい。判ったわ。何でも好きなもの作ってあげるから」
直哉は悪戯っぽい顔を作ってにっこりと笑う。あゆみが見る限り、こういう顔をしているときの直哉は空木そっくりだ。
「それじゃ、この間のキャロットポタージュがいいな」
「ええっ? あれ、ものすごく不味いって自分で言ってたくせに」
「あんまり不味いから癖になるって、あゆみちゃんが帰ったあと鍋を全部空にしちゃったんだよ」助手と同じ表情で空木が笑った。「マゾヒストの才能があるかもしれないね、直哉くん」
「な、なんて事言うんですかっ」
「ふふ、それじゃ、マゾヒストの高田直哉くん。一緒にお買い物に付き合ってくれる? 人参は切らしてるから」
あゆみもつられて微笑んだ。
直哉くんが助かって良かった。
顔を赤くした直哉を見つめながら、心の片隅でそんなことを考える。
これは物語の中の話。わたしが勝手に作った、ただの作り話。……現実の直哉くんはちゃんと元気にここにいて、声を掛ければ笑ってくれる。
空木事務所はこれからもずっと、誰が欠けることなくやっていけるんだ。
あのとき直哉くんが助かってよかった。
本当によかった。
※
……本当に。
それが本当だったら。
※
玉砂利を踏む音がすぐ横で響いた。
花束を持ったまま、わたしは振り向く。ひとの良さそうな初老の女性がそこにいた。
「亡くなったのは、ご家族?」わたしと眼が合うと、黒い服の女性は言った。
「いいえ」わたしは答える。
「友達です」
彼女はしばらく黙ってわたしをじっと見つめると、やがて肩のハンドバッグから何かを取り出し、わたしの顔に近づけた。
「気を落とさないでね。いつまでも泣いていちゃ駄目よ」
……泣いて?
柔らかい布の感触。
頬に触れたハンカチが湿って色を変える。
……ああ、そうか。
泣いていたんだ、わたし。
眩暈がするほど青く遠い空。晩秋の日差しに溶けた無彩色の石たちの群れ。
その下で永久に眠らされて、彼はもうここにはいない。
これがわたしたちのいる世界の真実だから。
『Game Over』なんてシンプルな一言で括れたら、どんなに楽だろう。
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