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(2020年4月15日掲載)

解 説

 

  この解説は,複線型学校体系時代ならびに単線型学校体系時代の学校体系図を参照しながらお読みください。

民衆学校
 古くから民衆教育は教会が担っていたが,公立の普通教育を授ける学校が必要と唱えたウノ・シュグネウスが1863年, Jyväskylä に公立民衆学校のための師範学校を開校して教員養成を開始し,その3年後の1866年5月1日には民衆学校法が公布され,全国各地に公立の民衆学校が創立されていった。創立されたものの,金持ちの子弟は依然としてエリートコースの文法学校に進み,貧民の子弟は労働者として働き,この学校に行ったのはごくわずかの子供たちであった(民衆学校がすべての子に義務化されたのは1921年のことである)。
 この民衆学校は教育言語がフィンランド語の学校とスウェーデン語の学校があり,基礎教育学校に移行したのは1970年代半ばのことである。教員は,1年生から6年生まで同じ教員が全科を教えるクラス担任制であった。

市民学校
 民衆学校は当初4年制であったが社会の発展に伴って後に6年制となった。その後中等教育の必要性が叫ばれ,1958年から2年制,後に3年制の中等教育コースを民衆学校の上に設置した(1977年まで)。日本の中学校と同様に普通教育と職業教育の基礎を教え,教科毎に担任が変わる教科担任制であった。

文法学校
 ヨーロッパでは古来より大学で講義する教育言語はラテン語であった。フィンランドの大学も例外ではなく,ラテン語を習得するためには大学入学前に文法学校で履修し,この文法学校ではスウェーデン語が教育言語であった(時代が下ると大学はスウェーデン語,文法学校はスウェーデン語・フィンランド語が教育言語となる)。スウェーデン語を習得するためには,文法学校に進学しなければならなかった。
 文法学校は,高校にあたるリセーと中学校があり,中学校には民衆学校の4年生を修了して,いわゆる11歳試験をパスした者だけが進んだ。
 文法学校は,一部公立があったがほとんどが私立で,授業料を取っていた。

基礎教育学校
 複線型の学校体系を改め,アメリカ,日本と同じような単線型の学校で,初等教育→前期中等教育→後期中等教育の流れを1972年から1977年にかけてラップランド地方から順次南下させて施行して現在に至っている。
 この流れの初等教育→前期中等教育を基礎教育学校(Peruskoulu)と呼び,後期中等教育を高校(Lukio)と職業学校(Ammattikoulu)と呼んでいる。
 基礎教育学校には,民衆学校,市民学校,文法学校の教員が合流したのであるが,各々の教員は各々の労働組合に属し,互いに既得権を主張して譲らず,私立学校の公立化(私学理事会の説得),授業時数の多少(教員の持ちコマ数の奪い合い),夏休みの長短(文法学校の教員は長い)など統合に伴う諸条件の調整に,国を挙げて大論争となった。しかし結局のところ,私立学校の公立化(学校教育の無償化),高齢教員の早期退職,資格不足教員の再教育(大学院教育),長い夏休みなど譲るべきところは譲ってできたのが基礎教育学校であった。要するに妥協の産物である。
 この問題のもう一方に,第2次世界大戦後の教員不足による能力不足の代用教員問題があった(日本でも「でもしか先生」問題があった)。特に文法学校の教員に顕著に見られたが,基礎教育学校への移行期(1972〜1977年)にはほぼ退職年齢に達し,新教員養成制度が動き始めて教員のレベルは格段に上昇した。
 この複線型から単線型学校制度へ移行する改革を推し進めたのは,労働組合を地盤とし,後に教育大臣となる Reino Oittinen (レイノ・オイッティネン1912-1978)である。

 

 


 

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