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有珠山の歴史的価値と危機管理 

1910年有珠山噴火(火山学から見た有珠山)

 ■ 近代火山学発祥の地「有珠山」

 有珠山の1910年噴火では東京帝国大学の大森房吉教授は自ら試作した地震計を現在の壮瞥町字壮瞥温泉に設置するなど、継続中の噴火の科学的観測を精力的に進めました。

 この結果、多数の地震とともに長く連続した振動(火山性微動)を世界で初めて記録するなど火山学に多くの新しい知見がもたらされました。

 これらをもとに大森教授は翌1911年に 「大噴火の予知は場合によってはひどく困難な問題ではない」 と述べ、噴火予知のために基礎的な観測を連続して行う火山観測所の設立を提言しました

 こうして有珠山は近代火山学発祥の地となったのです。


近代火山学の父 大森房吉博士(1868 – 1923)


大森式地震計で記録された火山性地震

 

 ■ 直前の噴火予知と避難の成功


       1910年有珠山噴火 45個の火口が形成 

 1910年噴火当時の室蘭警察署長であった飯田誠一氏は、この噴火の数年前に大森房吉教授の講義を東京で受けていました。
 飯田署長は地震が有珠山周辺で群発している知らせを受け、噴火の一日前までに有珠山から12km以内の住民約1万5千人を避難させました。

 噴火は真夜中に起こり、集落には噴石、降灰がありましたが、住民はすでに避難していました。
 これは科学的な根拠に裏付けされた事前避難が遅滞なく行われ、噴火予知と避難に成功した世界最初の事例と言えます

 

1977年8月7日有珠山噴火

 ■ 短時間に整然と行われた入院患者230人の避難


      1列で避難する入院患者(いこい荘前付近)
1977.8.7 三松三朗氏撮影


 1977年の有珠山噴火は、前兆地震の開始からわずか32時間後の8月7日午前9時12分、山頂の火口原で始まりました。このような短時間で噴火することはこれまでなかったので、周辺は大変混乱しました。

 噴火当時、この病院には230名の入院患者がいました。開設者である加藤和雄院長(故人)は、前兆地震発生後、いち早く緊急避難を想定し、当時の舘崎盛男壮瞥町長と協議し、対岸の仲洞爺地区の閉校校舎(仲洞爺小学校)を避難場所として決定していました。

 突然の噴火に慌てることなく、入院患者たちは病院スタッフの誘導により、避難場所の旧仲洞爺小学校まで約12kmの道のりを整然と徒歩で避難を開始しました。また、ただちに病院と役場の車両によるピストン輸送が行われ、刻々徒歩で避難先へ向かっている集団を次々と輸送、収容し、短時間で無事避難を完了しました。

 「もし車両だけの避難だったら・・・」。病院で待機した人たちは不安と恐怖でパニックになったかもしれません。「一歩一歩危険から遠ざかっているという安心感」がこの緊急避難作戦を成功させました。

 


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