その空間は、一種独特のものがある。
 半球のドームのせいで、声がステレオで響くくせに、防音室のように、音が吸い込まれてゆく。
 内部には、私服警官をはじめ、警察関係者がいた。
 幾つかある非常扉の前には両脇に2人ずつ配置されている。
 俺達は、解説ブースにいる目暮警部のところにやってきた。
 「警部。並んでいるのを見ているだけでは、よくわかりませんでした。」
 彼女の言葉に、警部の厚い眉がぐぐっと寄る。
 「そうか・・・。やはり、現場を押さえるしかない・・・か。よし、ご苦労さん。2人とも、予定の位置にいてくれ。」
 普段は7割くらい入ります、と職員は言っていたが、今日、ほぼ満員となっているのは、あるかどうかわからない麻薬取引の現場を押さえるために、人海戦術が採られているためだ。3割が警察官・・・ということになる。
 俺と彼女は、何食わぬ顔をして、指定された場所に立つと、辺りに目を配った。
 やがて、ベルが鳴り、照明が次々と落ち、どことなく異様な雰囲気が漂う中、最終プログラムが始まった。
 
 ・・・しまった・・・。
 内心舌打ちした。
 何も見えないのだ。さっきまで、明るいロビーを見張っていたから、いくら、薄暗いドームの中に入って、暫く経っていたとはいえ、早くからドーム内にいて、ある程度暗さに慣らしている、他の警官程目が慣れていない。
 人の手が作る暗闇に、俺は必死で目を凝らした。

 事前通知があったにもかかわらず、解説員の声は至って落ち着いていた。
 静かな音楽が流れ、柔らかなバリトンが観客を星の世界に誘う。
 音楽に溶け込みそうに語られたのは、ギリシャ神話のオルフェウスとエウリディケの物語だった。
 うろ覚えな物語が、星空から降りてくるような声と共に、段々と鮮明になってゆく。
 ふと、彼女がいるはずの隣を見やり、瞬時、息が止まる。
 ・・・いない?
 焦って、周りを見渡してから、まだ暗闇に目が慣れていないことに気付いた。
 ・・・このプラネタリウム、随分と暗いんだな・・・。
 普通、子供向けのプログラムなどでは、星空を眺めると言ってもそれだけでは飽きてしまうので、スライドを多用して企画ものを上映するため、ドーム内は意外と暗さを感じない。
 しかし、この特別プログラムは、星空を見せることを主体としているので、解説員の話が終わっても、頭上には日周運動以外、何の変化もなかった。
 仕方なく、定められたエリアに目を凝らすと、頭の中に、先ほどの物語が甦ってきた。
 今、彼女と並んでいるはずなのに、その存在が不確かなのが、オルフェウスと同じ状態のように思え、彼の不安が、まるで、自分のもののように感じてしまう。
 その名を呼んでみたい気もするけれど、まさか、ここで声は出せない。不自然きわまりないから、潜んでいるかもしれないホシに感づかれる恐れがある。
 ・・・上映時間は40分っていってたっけ・・・。
 腕時計の灯りは、数日前から壊れていた。
 ・・・気付いたときに、さっさと修理に出せばよかったな。
 そんなことを考えながら、あとどれだけかかるかわからないこの暗闇が、オルフェウスのたどった道のような気がした。
 ・・・っと、仕事、仕事。

 ドームの一角に光が射した。
 思わずそちらに目を奪われそうになるが、客席により一層目を配ったのは、刑事の習性とも言うべきものだったろう。 
 但し、報われることはなかったが。
 昇り始めた太陽は、瞬く間に、小さなきらめきを呑み込んでいってるだろう。
 作り物の星空は、作られた朝によって、消えてゆく。
 その様を、見上げていたわけではなかったが、記憶の中に、子供の頃見たプラネタリウムの朝が、浮かんだ。
 ・・・朝の光が眩しくて、本当に朝がきたようで、でも、よく見たら、継ぎ合わせの筋がちゃんと入った、いつものドームだったんだよな。
 張りつめていた糸が切れるように、客席がざわざわと騒がしくなった。
 上映終了で、扉が開かれる。
 あとは、プラネタリウムの終了間際に応援に駆けつけている筈の、麻薬犬の鼻に期待するしかない。

 「・・・高木君もダメだった?」
 消え入りそうな声に、振り向くと、彼女が困惑した表情を浮かべて立っていた。
 「・・はい。佐藤さんも、それらしいのは?」 
 意外に自分の声が小さいことに驚いたものの、防音壁に吸い取られてしまったためだと気付き、ほっとする。
 ・・・あんな話聞いたあとに、心臓に悪い・・・
 二人で顔を見合わせ、がっくりしながらも、俺は彼女から目が離せなかった。
 もしかして、彼女が抱えていた不安って、ああいうものだったんだろうか。
 自分のことを「疫病神」なんて言ってたけれど、振り向けば失うぞと脅されながら、陽の射さないトンネルを抜けるような思いをしていたんじゃないだろうか。
 「・・・高木君?」
 不思議そうな声で呼ばれ、はっと我に返った。
 「どうしたの?」
 覗き込む大きな瞳に、抱き締めたい衝動にかられる。 
 「いえ、なんでも・・・。今日は、ダメだったんでしょうか。」
 「そうね・・・」
 と言いながら、彼女はぼんやりとある一点を見つめている。
 同じように、そちらへ目をやろうとするけれど、それすらできなくて。 
 「今回は、空振りかな。」
 やがて、一人の私服刑事がやって来て、撤退を知らせた。
 「仕方ないわね。」
 「そうですね。」

 




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