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 「快斗・・・」
 やがて、躊躇いがちな、小さな声が、こぼれる。
 「ん?」
 くすっ。俺の声って、こんなに甘かったっけかな〜。
 心の中で、独り突っ込みを入れる。
 「あの・・・」
 「何?」
 一瞬の間をおいて、意を決したように、青子が口を開いた。
 「怪我、してない?大きな怪我、してない?」
 怪我・・・ねぇ。
 あれは、大きいうちにはいるんだろうか。確かに、脇腹に、痛みは多少残っているけれど、今の今まで、すっかり忘れてしまっていたところを見ると・・・。
 「たいしたこと無いって。」
 「でも!あちこち、血が付いてた。」
 「ちゃんと手当はしたって。ったく、俺をなんだと思ってんだよ。」
 「だめだよ。いくら快斗がお医者さんの卵だって。ちゃんと、青子に見せて!」
 これは、言い出したら、聞かないって奴か?
 知らねぇぞ、どうせ、免疫無いだろうに。
 そんなこと思いながら、やれやれと、俺は、片肘をついたままベッドサイドの灯りを点けた。
 「えぇっ?!」
 素っ頓狂な声と共に、青子がたじろぐのがわかった。
 もったいぶって、よっこらしょとベッドに座り直し、そのままあぐらを掻いた。
 上体を起こした彼女は、予想どおり、真っ赤な顔をして、固まっている。
 「診てくれるんだろ?看護師さん?」
 片膝に肘を乗せ、頬杖ついて呼びかけると、内心ものすごく困ってるであろうことが手に取るようにわかる顔をして、俺を見つめる。
 ・・・いや、上目遣いは、こういうとき、やばいんだけど。
 やがて、目をそらせたものの、まんじりとも動かない青子に、いじめすぎるのもかわいそうかと、体を動かそうとした時、すっと、温かなものが、脇腹に触れた。
 辛うじて貼り付けた絆創膏に、青子の指が触れていた。
 恐る恐るといった動きに、わけもなく追いつめられる心持ちになる。
 ほんの少し、眉がひそめられ、両手の指がそこに添えられると、青子の口が開く。
 「・・・絆創膏、はずしていい?」
 まるでおねだりをされているような、錯覚を起こしてしまうが、目の前の本人は、至って真面目だ。
 「あぁ。」
 僅かに、うわずる自分の声に、舌打ちしたい気分になる。
 そっと、いたわるように、絆創膏がはずされ、傷口が顕わになると、青子が息を呑む。
 そう言えば、どんな傷だったっけ・・・と、自分でも見ると、意外に大きな傷だったが、やはり処置は適切なようだった。
 あの状態で、ここまでちゃんと出来ていれば、単位を落とすことも無かろう。などと、全く関係のないことを、懸命に考えている自分がいる。
 そうでもなければ、有無をいわさず、彼女を押し倒してしまいそうだ。
 衝動をなんとかねじ伏せていると、青子が、顔を上げる。
 「ちゃんと、処置できてるだろ。」
 平然としたふりをしつつ、鼓動は飛び跳ねた。
 「はい。でも・・・」
 少し躊躇った後で、真っ直ぐな目が俺を見つめる。
 「ガーゼを貼り直して、包帯を巻いていいですか。このままだと、はずれそうですし。」
 最後の方の記憶がなかっただけあって、ガーゼの貼り付け方は、今の今までくっついていたのが、不思議なくらい、いい加減だった。
 まぁ、寝返りを打つこともなく、泥のように眠っていたということなのだろう。
 座り込んだ状態で、器用に後ずさりした青子は、放りっぱなしにしてある救急箱を求めて、リビングへと姿を消した。
 彼女が消えた扉から、目が離せないのは、きっと、まだ、半分くらいは、夢かも知れないと思っているせいだろう。
 けれど、隣の部屋の物音は、夢でもなんでもないし、握りしめた感触も、間違いなく、本物。
 その証拠に、再び同じ場所に姿を現した青子が、救急箱を手に、近づいてくる。
 「すいませんが、ベッドに腰掛けられますか?」
 傷ついた戦士達が、ナイチンゲールを天使と呼んだのが、わかった気がした。

 よっこらしょと、ベッドの縁に腰を掛ける。
 ぱたぱたと、青子が焦るので、肩から腰下にかけて、毛布を掛けて。
 新しいガーゼを切り取り、新しく化膿止めを塗り、「ちょっと押さえてて頂けますか?」と言いながら、包帯をあてがい、くるくると巻いてゆく。
 胴回りを巻くから、包帯の塊が背中を通過する時は、どうしても、抱きしめられているような格好になり、ちょっとした拷問気分を味わって。
 ぱたんという音と共に、「外科用」と書かれた救急箱を閉まると、青子は、ふぅっと、ため息をついた。
 「サンキュ。上手いじゃん?」
 包帯は、きちんと巻かれていたが、かといって、苦しくもなく。
 何か喋っていないと、本当に、問答無用で押し倒したくなるから、ちょっとおどけてそんなこと言ったのだけど。
 「そ、そんなことない。実習の時は、こんなに上手くは出来なくて・・・」
 ・・・だから、そんなこと言ったら・・・
 割と大きな音がして、救急箱が、青子の膝から転げ落ちた。
 さすがに、俺も、ちらっとそちらに目をやるけれど、確か、割れ物は入ってなかったから。
 大きな目を丸くして、可愛い口を大きく開けた青子の顎を取ると、視線を合わせるべく、こちらへ向ける。
 目があった途端、その顔が真っ赤に染まるのがわかったけれど、既に、理性の第一堤防が決壊した俺は、青子を抱き寄せ、唇をそっと重ねた。
 咄嗟に、胸を押されたけれど、素肌に触れたのに驚いたのか(いや、触れるのは当然なんだけど)、躊躇うように腕が下ろされる。
 深く口づけたくなる衝動を何とか抑え、抱きしめた腕の力を緩めると、困ったような、でも、それだけでない表情の青子が、俺を見つめた。
 「んな、かわいいこと言ったら、止まらねぇだろ?」
 「え・・・と・・・」
 しどろもどろに、焦りまくる青子を緩く抱きしめたまま、首許にそっと頭を垂れた。
 「青子が欲しい。・・・今すぐ欲しい。」
 言ってしまってから、我に返ったけど、耳元でこぼれた言葉は、余すところなく、彼女の耳に落ちたようだ。
 文字通り、かちんこちんに固まってしまったのがわかり、何焦ってんだかと、落ち着きが戻ってくる。
 そろそろと顔を上げると、真っ赤になりながらも、きまじめな顔で、俺を見つめる青子と視線が合う。
 あぁ、俺の顔は、多分、今まで生きてきた中で、一番情けねぇ気がする。
 そう思った瞬間、青子は、静かにまぶたを閉じた。
 まるで、スローモーションのような一瞬。
 震えそうになるのを、押さえ、俺は、ゆっくりと青子を、ベッドの上に、押し倒した。
 さっきまでの、荒々しく、ほとばしりそうな情熱ではなく、極上の羽毛に包まれたようなぬくもりが、体の芯を熱くしてゆく。
 愛おしい・・・って、こんな感じなんだ。
 気持ちが言葉になって、一層その思いが募り、俺は、青子の両脇に腕をついた。

 腕の中に閉じこめて、至近距離で見つめると、青子は微かに微笑んだ。
 俺の心を暖かく包む、柔らかな笑顔。
 額に、頬に、瞼に、軽いキスを落としてゆくと、目を閉じて、くすぐったそうな顔をする。
 ・・・そんな顔したら、もう、止まれねぇじゃん。
 うっすら瞼を開けた青子をもう一度見つめると、少し不思議そうな顔で俺を見上げる。
 「今すぐに、抱きたいって言ったら、・・・どうする?」
 心臓が壊れそうで、声が掠れる。
 青子、お前、俺を簡単に殺せるぜ?
 「・・・いいよ・・・。」
 一瞬、耳を疑った。
 「・・・いいのか?」
 自分で、言っといて、この台詞。
 情けねぇ・・・と思ったとき、青子が、少しためらいながら、小さな声で言った。
 「・・・抱きしめて?・・・快斗・・・。」
 真っ赤な顔をして、恥ずかしいのか、青子はぎゅっと目をつむった。
 ・・・なんてかわいい奴!
 自然と自分の顔に笑みが浮かぶのがわかった。
 閉じた瞼にもう一度キスを落とすと、鼻筋をたどり、柔らかな唇に触れる。
 そして、微かに震えるそのぬくもりを、そっとついばんで・・・。
 俺は、いとしいぬくもりを力一杯抱きしめた。
 こちらのリードに、ついてくるのが精一杯の、つたないキス。
 包帯を胴に巻いただけの俺の体の、どこに手を回していいのかわからず、躊躇いがちに、戸惑う手。
 どれもこれもが愛おしくて。
 そして、俺は、暴走しそうになる寸前で、唇を離した。
 上気した頬、キスで潤った唇、潤んだ瞳、どれもこれも、俺を誘うには充分だけど、彷徨う手が、時折、俺の傷をいたわっているのを知っている。
 今は、これだけでいいと思える自分が、不思議だけれど。
 もう、その手を二度と離さないから、ゆっくりと二人で歩いていこう。
 そう思うと、何だか、不意に、眠気が襲ってきた。
 案外、組織の連中より、青子の方が、俺を緊張させるのかも知れない。
 もぞもぞと、掛け布団を引きよせ、青子を抱いたまま、俺の意識は、急激に薄らいでいった。
 殆ど徹夜だった青子が、俺の後を追うように、眠りに落ちていったのを、知る由もなく。



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