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 ふと、忘れていたものが、鮮明に蘇ってきた。
 予告日の朝、俺は、今生の別れなんて、言葉を思い浮かべながら、彼女を見送ったんじゃなかったっけか?
 少なくとも、彼女は、俺の依頼を聞き入れはしたけれど、俺との距離を変えようとはしなかった。
 あの、バレンタインの夜に、離れてしまった距離を。
 けど、今、こうしてここにいて、「無事で良かった」と、涙を流してくれてるってことは・・・。
 期待していいのか?
 いや、この状況で、100%期待しても、文句は言われないだろう?
 青子は、俺を・・・受け入れてくれる?
 
 青子の両手に包まれた手を、逆に握り返してみた。
 触れ合う手元から、生き返るような感じがする。
 握り返されて、青子が俺を見つめた。
 夜でも暗くならない街の、うすら明るい光が微かに、彼女の驚いたような表情を照らす。 握った手を手前に引き、その力で、俺は、青子の方に体を向けた。
 どれだけ眠っていたのか知らないが、多少のだるさは残るものの、疲労は思っていたよりも回復している。
 青子はと言えば、引っ張られて腕が伸び、ベッドの上に身をのりだすこととなった。
 「ここへは、どうして?」
 努めて、穏やかに尋ねてみる。
 「・・・地下鉄と、バスを乗り継いで・・・」
 答えるのは、やや緊張した青子の声。
 が、俺たちの間に流れたのは、何とも形容しがたい沈黙。
 こういう場合、俺は、何と反応すればいい?
 漫才のボケも真っ青な、天然っぷりに、返す言葉より先に、笑いがこみ上げてきた。
 気障な台詞も駆け引きも、てんで役に立たない、真っ直ぐさ。
 これが、青子。
 もう一度腕を引いて、より近くに青子を引き寄せ、頭をぐりぐりとなで回しながら、笑った。
 「や、確かに、そうだろな。」
 まぁ、タクシーという選択もあるだろうけれど、青子らしいというか、何というか。
 「だって・・・!」
 頭をなでられるのを避けようと、空いている手で、俺の腕をつかまえようとしながら、青子は、言葉を続けた。
 「だって、誰も知らないと思うけれど、万一、警視庁から、誰かが青子を追ってきたら、青子は、ここまで警察官を連れてくることになっちゃうもの!」
 その言葉に、腕が止まる。
 ようやっとのことで、俺の腕をつかまえた青子の方は、必死な面持ちで、俺を見つめていた。
 互いの腕が、交差したまま、俺たちは見つめ合う。
 それって・・・
 「だから・・・だから、ここまで、公共交通機関を乗り継いできたの。最後は、駅から、タクシー使ったけど。・・・ラッシュアワーだったから、人に紛れたと・・・」
 懸命に言葉を紡ぎ出す唇に、そっと、人差し指を当てた。
 それに気付いて、青子が口をつぐむ。
 目頭が熱くなるような気がした。
 「青子は・・・俺を許してくれるのか?」
 刑事の尾行まで心配した青子に、何を疑うことがあろう?
 でも、それでも、聞かずにいられなかった。
 直接でなくても、彼女のたった1人の家族を、死に至らしめた原因は俺で。
 彼女すら、傷つけてしまった俺を、本当に、受け入れてくれるのだろうか・・・
 「俺みたいな奴を・・・」
 「大切な人だから」
 彼女の吐息が、指に触れる、その感覚が、そうさせたのか、或いは、彼女の呟いた言葉が、そうさせたのか。
 俺は、軽い目眩を覚えた・・・それは、とても甘やかな。
 「大切な人だから、失いたくないの。許すとか許さないとか、そういうことじゃなくて、青子は、もう、お父さんがいなくなった時みたいな、あんな思いは嫌なの。」
 微かに震える声。でも、その瞳は、真っ直ぐに俺を見ている。
 「青子・・・」
 青子の口許から、手を下ろすと、彼女は、そっと視線をそらせた。
 「夜中過ぎ、撃たれたって聞いて、聞きかじっただけだったから、本当かどうかわからなくて。情報は、その一報だけだったから、確かめようがなかったし、下手に聞けないし。快斗が、もし、死んじゃったら、って考えてたら・・・」
 そこで、青子が言葉を切る。
 「・・・たら?」
 そっと先を促す。
 「・・・生きていられないような気がして・・・」
 震える小さな声。
 けれど、俺の手を握った手には、ぐっと力が込められて。
 止めるものは、もう何もなかった。
 「きゃっ」と言う言葉と共に、俺は体を起こしていた。
 今まで、俺が横たわっていたところには、引っ張り上げられて、目を丸くしている青子。
 その脇に、肩肘で体を支えている俺。
 この瞬間に、どんな言葉が、在るっていうんだろう。
 限りない愛しさと、胸の底からこみ上げる歓喜、そして、拭いきれない申し訳なさ達が、ない交ぜになって、言葉もなく、青子を見下ろしていた。
 そっと、手を解き、頬から、髪へと手を滑らせる。
 驚きで固まってしまっていた青子は、やがて、力を抜いて、ただ黙って、俺のしたいようにさせてくれた。
 決して、もう、手に入れることの無いと諦めていたぬくもりに、俺は、幸せが、じんわりと満ちてくるのを、ただ、静かに感じていた。



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