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 寝不足と疲労で、ぼんやりしていたからこその、行動だったのかも知れない。
 シンプルなドアを押すと、そこは、オレンジ色の水底に沈んだような空間だった。
 肩で息をしながら、カウンターを見ると、一ヶ月ほど前に会ったきりの女性が、目を丸くしている。
 ようやく警視庁から解放され、迷うことなくまっしぐらに足を向けた場所が、ここ。
 「快・・・黒羽さん・・・は・・・。」
 息が上がってしまって、上手く話せない。
 それがもどかしくて、青子は、大きく深呼吸し、つばを飲み込んだ。
 暖かくなってきているとはいえ、まだ浅い春の夕暮れは冷たく、気管支が痛くて悲鳴を上げそうだ。
 「中森さん・・・だったかしら?」
 きょとんとした顔の、彼の母親という人は、磨いていたグラスを置いた。
 「黒羽さんは・・・」
 でも、その後の言葉が継げない。
 撃たれたという情報が、頭の中を駆けめぐり、逮捕されていないという事実が、どうしても、嫌な方へと想像力をかき立てる。
 尤も、その時点で、目の前の彼女の、その様子を見れば、わかりそうなものだったのだけれど。
 「快斗?・・まぁ、今回はかなり手ひどくやられたみたいだったから、今頃、自分の部屋で、くたばっちゃってるんじゃないかしら・・・。」
 きっと、その言葉を聞き終わる前だったと思う。青子の足は、くるりと、もう一つの扉に向かっていた。
 「従業員専用」と書かれたそれは、この喫茶店の上にあるマンションへと続くドア。
 迷うことなく、ドアを押すと、目の前のエレベーターに向かう。
 行き先は、最上階。
 通常のエレベーターより早めな筈なのに、気が急いてしまう。
 頭の中では、「ひどくやられた」という言葉と、「くたばって」という言葉が、渦を巻いて、うなりをあげている。
 自分の部屋にいるということは、とりあえず、どこへも墜ちることなく、戻ってきたということ。それだけでも、良かったと思わなければと、思いつつ、最悪の事態を想定している自分がいる。
 怖いという気持に押しつぶされそうになる。
 この目で、重体の彼を見てしまったら、いや、それ以上に、もし彼が、既に、虫の息だとしたら・・・?
 たかだか、看護婦の卵に、一体何ができるというだろう。
 そんなこと、普通に考えてあり得ないのに、全く、冷静さの欠片もなく、音をたてて止まった箱の中から、扉が開くのももどかしく、一直線に駆けてゆく。
 一月前、自分を暖かく癒してくれた、あの部屋へ・・・。
 
 一瞬の躊躇いの後、ドアノブに手を掛けると、それは、いとも簡単に開いた。
 と同時に、白いものが、視界に広がった。
 どきんと大きな音をたて、思わず、その場に釘付けになる。
 そこについた、汚れが血のシミであることは、一目瞭然だ。
 「・・・黒羽さん・・・?」
 震える声で、名前を呼んでみたけれど、部屋の奥はしんとしていた。
 ふらりと立ち入れば、後は止めるものなど何もなかった。
 「黒羽さん?いないんですか?」
 ともすれば、引っ込んでしまいそうな声を絞り出す。
 靴を脱いで、脱ぎ捨てられたマントを拾う。
 ・・・なんの変哲もない、ただのマントの筈なのに、これが、どうして、あんなふうに、風に乗ることができるのだろうか・・・。
 なんの脈絡もないことを、無理に考えて、現実逃避しようとしている自分に気付く。
 「黒羽さん、返事してください。青子です。中森青子です。」
 声が揺らいで、絞り出そうとすればするほど、鎖骨の間辺りに、痛みが走る。
 歩を進めるに従って、点々と脱ぎ捨てられた、衣服。それは、組み合わせてみるまでもなく、キッドの衣装だった。
 それらの、あちこちに、こすりつけられたように付着している血痕に、鼓動が早くなる。
 「黒羽さん?!いるなら、返事をして下さいっ!」
 思いっきり叫んでいるつもりなのに、蚊の鳴くような声しか出ないのが、もどかしく悲しい。
 最後に落ちていたシャツを手に、その部屋の前で、青子の足は立ち止まる。
 恐る恐る中を見つめると、分厚いカーテンを通して、夕暮れの光が漏れ入っている。
 そこは、彼の匂いに包まれながら、熱にうなされた部屋。
 しばしの逡巡の後、青子は、そっと、足を踏み入れた。
 手にした、脱ぎ捨てられていた衣装を、そっと、戸口脇に下ろし、引き寄せられるように、ベッドへと近づいてゆく。
 鼓動が耳を塞いで、うるさいのか、静かなのかわからない。
 そして、そんな青子をよそに、彼は、そこに横たわっていた。

 目の前で、目を閉じた彼は、青子が傍らに立っても、ぴくりとも動かなかった。
 「黒羽・・・さん?」
 青子に気付かない彼など、見たこと無い。
 雑踏で待ち合わせをしても、絶対、先に青子を見つけてくれた。
 「黒羽さん・・・青子です。」
 でも、そこで、言葉が止まる。
 それ以上、なんて言えばいい?
 差し出された手を振り払ったのは青子。
 彼の思いを受け止められなかったのは、青子。
 昨日、きっと、決死の覚悟だった筈の彼に、何も言えずに別れたのは・・・青子。
 目の前の彼は、部屋が、ダークオレンジの光に包まれているのに、青白い顔をしていて、弾けるような笑顔もなく、優しく青子を見つめる瞳も、今は固く閉じたまま。
 『青子は、嘘がつけねぇよな!』
 そう言って、彼はよく笑ったけれど、そんなこと無い。 
 ねぇ、自分を偽って、嘘ばかりついていたのは、青子の方。あなたは、いつだって、あなたの本当を見せてくれてたでしょう?
 それが、たとえ、キッドの時でさえ・・・。
 彼の姿が、ゆらりと揺らめくと、もう、我慢ができなかった。
 「黒羽さん!目を覚ましてよ、黒羽さん。お願い。もう、自分の気持ちをごまかしたりしない。嘘なんか言わない。あなたが好きだって、ずっと好きだったって。ねぇ、青子の言葉を聞いて?ねぇ・・・起きてよ、快斗!」
 膝から力が抜け、ベッドに思わず手をついた。 
 精一杯叫んでも、まぶたの開かない、無表情な寝顔の傍らに、泣き崩れるしかなかった。 「いや・・・。目を覚まして、快斗。青子の傍からいなくならない で。お願い。目を開けてよぉ。青子をひとりにしないで。・・・大切な人を失うのはもう嫌。なんだって、するから・・・快斗・・・快・・・」
 涙は、止まらなかった。
 ずっと、彼の傍らで、泣きじゃくることしかできなくて、いつしか、彼の名前を呟くことしかできなくて。



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