next




 その一報が入ってきたのは、いわゆる丑三つ時も過ぎた頃だった。
 慌ただしさの中、神経が高ぶったまま、眠ることなどできやしなかった。
 安全かも知れないけれど、神経がもたないよ・・・。
 そんなことを、ぼんやり思いながら、手洗いから戻る途中のこと。
 「キッドが撃たれた!」
 会議室の空いたドアから、漏れ聞こえてきた声。
 一瞬、足下から、力が消えてゆくような錯覚を覚える。
 ・・・黒羽・・・さん?
 立ち止まった足が、なかなか動かない。
 警察内部の情報を、たとえ、警部の娘だからとて、聞いて良いわけがない。
 けれど、その真偽を確かめたい衝動に駆られる。
 本当なのだろうか?今まで、あれほど、警察を手玉にとり、組織を相手にしながら仕事を成就してきたキッドが?
 窮鼠猫を噛むということだろうか。
 警察が、一斉検挙を始めたから?
 「現場は?」
 「所轄は・・・」
 「・・・なに?もう一度確認を・・・」
 情報が錯綜しているのか、会議室から、混乱したような響きが聞こえてくる。
 右腕に、ひんやりとした壁の感触。
 一瞬、目眩をしたような気がして、気付いたら、傍らの壁にもたれ、腕を抱きしめていた。
 心臓が、こんなに早鐘を打っているのに、どうして、手足の先から冷たくなっていく気がするの?
 黒羽さん・・・本当に撃たれたの?怪我をしているの?・・・それよりも、もっと・・・
 思わず目を閉じてしまう。
 会えない・・・って、どういう意味だったの?
 もしかして、生きて帰れないってことを言っていたの?
 どこをどうやって、自分にあてがわれた場所に戻ってきたか、記憶が定かじゃなかった。
 蛍光灯の光が、やけに眩しい部屋の片隅で、両腕を抱きしめる。
 そうでもしてなきゃ、胸の中が、すぅーっと、どこかへ落ちてしまいそうで。
 引き込まれる笑顔、どきっとするくらい心の中に滑り込んでくる声、抱きしめられた強い腕も、凛としたキッドの姿も、この冬の間に刻み込まれた彼が、一時 に青子の中を駆けめぐり、そして、・・・こうやって、自分自身を抱きしめていないと、それら全てが、霧散してしまいそうな、恐怖感に駆られて、たまらずに 目を閉じる。
 「・・・快斗・・・」
 思わず、口にしていた。
 幾度も、呼んで?と言われて、なかなか呼べなかった、彼の名前。
 呼び捨てでいいのにと、苦笑した笑顔すら、眩しくて。 
 恐怖感・・・そう、怖い。
 彼を失うのが怖い。
 それは、まるで、彼に会わないと決めた時よりも、遙かに深くて、恐ろしい。
 お父さんを失った時は、突然のことで、呆然としていた。
 悲しみが後から、後から、ゆっくりと効いてくる感じだった。
 でも、恐怖感を感じることはなくて。
 それは、きっと、予告無しに失ったから。
 今は、じわりじわりと締め上げられてる感じ。
 彼を永遠に失うかも知れないということを、失いつつあるという事実をもって、思い知らされ、心が締め付けられる。
 こんなに、彼を失うことが怖いなら、何故、あの時、彼を拒んでしまったのだろう。
 彼と会わないなんて、決めたんだろう?
 青子を見つめる眼差しの暖かさに、偽りなんて、無かった。
 だから怖かった。引きずり込まれるのが。お父さんが追いかけていた犯罪者なのに、お父さんを裏切ることが怖くって、こんな青子が娘だから、お父さんが死んでしまったのかも知れないと、本末転倒なのはわかっているのに、そんな思いが消えなくて。
 でも、今、思い知る。
 彼を失うことが、お父さんを失うことよりも、もっと怖いと感じている自分の心を。 
 こんな青子を、お父さんは、許してくれる?
 失うことが怖いくせに、あなたを拒んだこと、青子が拒んでも、あなたが拒むことはないという慢心を抱いていたことを、許しを請えば、あなたは生きて戻ってくれる?
 「・・・っ」
 でも、これ以上、名前を呼ぶわけにはいかない。
 キッドであるあなたと、顔見知りであることを悟られてはいけない。
 ・・・尋ねられたら、青子に嘘はつけないもの・・・。





 長い夜が終わって欲しかった。
 事件の全てが終結する、夜明けが来て欲しかった。
 だから、最後の検挙終了の報が入った時、いてもたってもいられなかった。
 どこからも、キッド逮捕の報は入っていない。
 狙撃されたという情報も、結局のところ、真偽のほどは明らかにはされていない。
 事実はどうなのか?
 彼は、無事なのか?
 心は急くばかりだったけれど、いくら、何でも、許可無くここを離れるわけにはいかない。
 騒然とした署内で、時間だけが過ぎてゆく。
 時折、青子の存在に気付いた人が、何か声を掛けてゆくけれど、返せるのは虚ろな返事だけ。
 当然、眠ることなど、かなわなかった。
 ただ、ひたすら、彼の安否を気遣い、暴走しそうになる心を押しとどめることで、精一杯で。


<<