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 急いで、部屋に引き返した俺は、すぐ、用意したトレイを持って、寝室に入った。
 程良く暖められた薄暗い部屋の中で、苦しげな息づかいが聞こえる。
 サイドボードの引き出しからタオルを出して、洗面器に放り込むと、からんと氷の音がする。
 けれど、青子は、何の反応も示さなかった。
 タオルを置く前に、そっと額に手を当てると、かなり熱い。
 前髪をそっとかき上げて、タオルを乗せると、青子は微かに首を振った。
 「・・・さん・・・」
 虚ろな唇が、父親を呼んだような気がした。
 熱に浮かされた頬を、一筋の滴が伝う。
 あまりにいろいろなことがありすぎた、夜だった。
 どうやら、青子を傷つける要因は事欠かないようだし。
 ・・・で、俺も、そのうちのひとつ・・・か。

 幸い、というべきか、迷うところだが、体の冷えは、解消した。
 但し、発熱は、夜通し青子を苦しめた。
 幾度、悲しげなうわごとを聞いたことだろう。
 それでも、夜明けを迎える頃、徐々に熱は下がっていった。
 「着替えした方がいい?」
 そう言って、再度その女性(ひと)が現れたとき、俺がどれ程ほっとしたか。
 実際のところ、汗をたっぷりかいた青子は、着替えを必要としていたのだが、それを淡々とできる自信は、俺にはなかった。
 やりきれない、切ない言葉を耳にする度、幾度、その唇を塞ぎたかったろう。
 辛い思いは、全て呑み込んでしまいたい・・・と。
 ・・・いや、結局、青子の全てを、この手の中に、収めたいだけなのかも知れない。
 そんな状態でいたから、寝室を放り出されたときは、ほっとした。
 
 「ん・・・・?」
 気配がして、うっすら目を開けると、すっかり高く昇った日差しを背に、青子が立っていた。
 今ひとつ、はっきり寝覚めぬまま起き上ると、肩から毛布が落ちる。
 どうやら、あのまま、ソファで、うたた寝をしてしまったらしい。
 「あ・・具合・・・どう?」
 あくびをかみ殺しながら、尋ねると、恐る恐るといった感じで青子が口を開いた。
 「あの・・・ありがとうございます・・・。昨夜、わたし・・・」
 どうやら、多少、頭の中が混乱しているらしい。 
 「んっと・・・それより、飯、食えそう?」
 俺は、はっきり言って、腹が減った・・・。
 「え?あ・・・はい・・・。」
 「食欲があるってんなら、もう、大丈夫だな。じゃ、飯食いに行こうぜ。」
 俺は、毛布を一蹴りして、立ち上がると、そのまま、玄関へ向かった。
 ジャンパーを引っかけると、後ろも見ずに、そのまま、エレベーターへと歩いていく。
 ちいさな、軽やかな音がして、青子がついてくるのがわかる。
 ・・・よかった。大事に至らなくて。

 「あら、元気になったのね。」
 カウンターから聞こえる声に、とりあえず、ひらりと手を振り、俺はどんどん進んでゆく。
 壁面の殆どを占めるガラスからは、陽の光がたっぷり射し込み、寝不足の身には、かなり眩しかった。
 にもかかわらず、腰を下ろすために選んだのは、その喫茶店で、一番日差しがたっぷりと注ぎ込む、コーナーの席。
 宵っ張りを矯正するための場でもある。
 青子の足音が止まる。
 大きなベンジャミン(大体、こんな日の当たるところに置いておくから、化け物みたいにでかくなるんだ)の脇の、小さなテーブルに、寺井ちゃんの姿があった。
 「あ・・・おはよ。」
 一応、声だけかけて、俺は席につく。
 「おはようございます。お加減はいかがですか?」
 ・・・俺は、アウトオブ眼中なわけね・・・
 「・・・おはよう・・・ございます。あ・・・あの・・・」
 「具合が良くなったなら、良かった。それでは、私は、用がございますので。」
 そう言って、寺井ちゃんは、席を立つ。
 ・・・一応・・・気を利かせてくれたのだろうか。
 「座れば?」
 寺井ちゃんの背中を見送っていた、青子の視線が、俺に降りてくる。
 その唇は、開きかけたが、また、すぐ閉じられ、青子は、俺の前に腰を下ろした。
 真っ白なブラウスが、目に痛いほど眩しい。
 陶器やガラスのぶつかる微かな音と、静かに流れるバロックの音色。
 様々な音が俺たちの間を滑り抜けるが、互いに口を開くことはなかった。
 それでも、居心地悪そうに青子が身じろぎしたとき、「あら」という軽い声と共に、お盆が青子の前に置かれた。
 「え?」
 驚く青子に、盆を置いた本人は、その上に乗っていた土鍋のふたを取った。
 「あれだけの熱が出た後だからね。どう?だるいとか、無い?」
 気安く話しかけられ、青子が面食らう。
 「はい。おかげさまで。・・・あの・・・」
 まぁ、どこの誰かわからないのに、訳知り顔されてもな。
 しかし、レジの前に、数人の客が立ち、そちらに意識が向いた彼女からは、「ごゆっくり〜」と軽い一言が返っただけだった。




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