next




 足が地に着かなくなっても、もがこうとする青子に、
 「暴れると落ちるぞ。」
 と、一言ささやくと、静かになった。
 定員オーバーの上、穴開きときている。
 いつもは片手放しでも十分飛べるが、今は何とかバランスをとらなければ、墜落もあるだろう。
 で、いくら華奢な体つきをしているからといって、大人一人を片手でしっかり確保できるわけもない。
 必然的に、青子が俺にしがみついてくることとなった。
 ・・・こういう状況じゃなきゃ、あまりにもおいしすぎるのだが・・・。
 自然の「風」が吹いていなくても、ビル街には、「ビル風」という風が吹く。
 人の手が加わったこいつは、気紛れなことに、時折、思いもかけない悪戯をする。
 あまり歓迎したくないつむじが、それでなくても不安定な俺達を直撃した。
 これ以上の滑空は、危険だ。
 できるだけ、場所を選び、足が地に着いた、その瞬間に、俺は、青子の腕を引いて走り出した。
 組織って奴は、なめてはいけないのだ。
 着地の前に、追っ手が放たれていることは確認しておいた。

 繁華街の、入り組んだ暗い路地を走る。
 とにかく、走って逃げ切るしかない。
 背後で、必死についてくる、息づかい。
 「仕事」柄、俺は土地勘があるけれど、あいつは周りのことなど、殆どわからないはず。
 いくつかある逃走経路を、ひた走りに走りながら、俺は自分の手を握り返していた力がかなり弱くなっていることに気付いた。
 ・・・限界か・・・?
 睡眠ガスも吸い込んでるから、そろそろそれが来ても仕方がない。
 けど、もう少し、もう少しもってくれ。
 そうすれば、なんとかなるから・・・。
 ぎゅっと手を握ると、手袋の向こうに、微かな反応があった。
 まだいける。
 そう、そこの角を曲がれば。
 曲がれば、最近閉鎖したばかりのビルがあるから。
 その瞬間、「あっ」という声と共に、掌に握った手が抜け落ちそうになった。
 「青子っ!」
 反射的に、その手を引き、身体を抱き寄せる。
 そのまま、廃ビルの裏路地に転がり込むと、黒子を纏い、息を殺す。
 抱きしめた青子の壊れそうな鼓動を感じながら、やがて通り過ぎる足音を聞いた。
 しばらくの間、様子を伺いながら、やがて、一つの危機が去ったことを知る。
 けれど、それは、もう一つの危惧が現実となることでもあった。

 間口が小さく、奥行きのある間取りを「ウナギの寝床」という。
 まさに、そんな場所。
 廃ビルの入り口は、同時に、俺の根城のもう一つの入り口。
 くねくねと遠回りをしながらも、歩き慣れた暗闇を、息が切れそうな青子の手を引き進んで行く。
 このときの俺は、怪盗キッドではなく、黒羽快斗だった。
 そして、そのことに、俺は全く気付いていなかった。
 危機を脱して、気を抜いていたせいか、・・・やはり、寺井ちゃんの言うとおりだったのか。
 扉を開けると、そこはカウンターバーの奥座敷という名の控え室・・・。
 肩から力が抜けて、ほっとした瞬間、背後の声が俺を射抜いた。
 「黒羽さん・・・。」
 えっ?と思って振り向くと、青子が、信じられないという顔で、俺を見つめていた。
 その瞳が揺れている。
 「・・・黒羽さんが・・・・キッドだったんですか・・」

 沈黙の中で、俺達は言葉もなくお互いを見つめ合う。
 もはや、逃れようのない状態に、俺はゆっくりと俯き、シルクハットを取った。
 キッドが変装の名人だということは、世間一般に良く知られているのだから、何とか言い逃れの方法があったのだろうに、それができなかった。
 「・・・まさかって、思ったのに・・・。」 
 てことは、今気付いたってわけじゃないのか?
 「いつ、気付いた?」
 青子が、ぐっと顎を引く。
 「『落ちるぞ』って、言われたとき・・・」
 声が低く、警戒しているのがわかる。
 「あれか・・・。よくわかったな。」
 下手に言い逃れなんてしてなくて良かった。
 だからといって、今が歓迎すべき状態じゃないことには、違いがない。
 核心に触れない、一番、気まずい会話に苦笑する。
「どうして・・・」
 困惑した声は、それ以上続かなかった。
 その、言葉に含まれているのは、何なのか。
 息が整ってきた青子の頭の中は、逆に、混沌としているようだった。
 そんな彼女に背を向け、俺は、マントを一振りし、この場所にふさわしい格好になる。
 白いワイシャツと、黒いスラックス。
 ついさっきまでの、上から下までの白装束は、一瞬のうちに、シルクハットの中に納めた。
 淡々と、いつものように、それを、壁に掛けた、1枚のシルクスクリーンの後ろの金庫に放り込む。
 ポケットから抜いた、宝石は、一度シルクのハンカチで包んだ。
 脇にある、スタンドの明かりをつけ、鑑識用のルーペで、本日の獲物を検分。
 依頼の品と確認。
 もう一度、ハンカチで包み直すと、それら全てを、先ほどの金庫の中に放り込み、鍵をかけた。
 ・・・俺は、一体何をしているのだろう?
 脇にかけたタオルで、汗を拭く。
 優雅、華麗と称されるキッドとて、人間には違いなく、舞台裏なんてものは、こんなもの。
 それを、さらけ出したからといって、どうなるわけもない。
 あの、屋上での青子を見てりゃ、いや、そうでなくたって、中森警部の娘らしく、正義感が服を着て歩いているような、彼女が、この事実に、どう対処するかは、容易に想像できた。
 首にかけたタオルに口許を沈めていた俺は、それでも、試みることにした。
 目を上げると、俺を見つめる青子と目が合う。
 先手必勝。
 「このこと、・・・黙っててくんない?」



<<