「カチッ」 心の中で舌打ちをする。 ま、ある程度、予想しなかったわけでもない。 その小さな音の主は、どうやら、俺の心臓をぴたりと狙っているようだ。 このビルの屋上から、グライダーで飛び降りたとしても、致命傷は免れないだろう。 眩しいほどの、冬の月に背を向け、俺はゆっくりとそちらを向いた。 「ほう・・・。こちらの意図は、言葉にしなくても、よくわかってくれたようだね。」 落ち着いた物腰の、しかし、その奥に、油断のならないものを潜ませた声が響く。 かなりやばい状況に陥っていることには違いがないのだが、俺はポーカーフェイスの下でほくそ笑んだ。 核心に近づいた。 今までの雑魚共とは、てんで格が違う。 こいつは、間違いなく、幹部だ。 ボスまで、もう少し・・・ってか。 「くすねていったものを、返してもらいたいのだが・・・。」 穏やかだが、有無を言わせぬものの言い。 相手がクマなら、欲しがるものを放り投げて逃げるなんて手もあるが、うちの信用問題に関わるから、それはパス。 「返すくらいなら、くすねたりはしませんよ。」 どんな窮地に立っても、エレガンスは崩さずに。 男の目から、穏やかな笑みが消えた。 ・・・口許にだけ残すなよ・・・。 微妙な「間」というものが生じたとき、奴の携帯の着メロが鳴る。 ラフマニノフのピアノコンチェルト2番。 結構、いい趣味してんじゃねえか。 部下共の間に、緊張が走った。 さすが。逃げる隙さえ与えない。 俺から目を離さず、通話していた奴は、電源を落とすと、何とも言えない微笑みを浮かべた。 「これから、君に、是非ともお目にかけたい人がいるので、もう暫くお待ちいただけるかな?」 警戒心を、否応なく煽る言葉。 誰か、ここへ来る? もしかして、・・・お待ちかねの、親玉・・・? 「・・・っ」 扉が開いて、数人の男達が現れたとき、俺は息を呑みそうになった。 どんなときでも、動揺を見せない。 それが、どんなに恐ろしく大変なことかを、初めて思い知る。 と、同時に、それをみっちり仕込んでくれた親父に、深く感謝した。 1人の男に、腕をとられて姿を現したのは、青子だった。 さすがに、俺が初めて声をかけたときのように、のこのこついてきた、というわけではなさそうだ。 困惑と、警戒をその顔に浮かべ、・・・舌を巻いたことには、腕を引っ張った男を、にらみ返していた。 見かけによらず、気の強ぇ、女・・・。 それがまた、一つの魅力でもあるわけだけど。 いや、そんなこと考えてる場合じゃない。 「私は、女性には不自由していないのですが?」 俺の言葉に、男の眉が楽しそうに上がる。 「よく存じ上げておりますよ。世界中の女性を、魅了すると言われている、貴方のことだ。 私も、その点については、見習わなければと思っていますよ。」 敵もさる者。 「なら、エスコートするときは、強引に腕を引っ張ってくるものでは、ありませんね。」 青子は、俺に気付くと、怪訝そうな表情でこちらを見た。 「だそうだ・・・おい、腕を放せ。」 男の声で、部下はすぐさま、青子を解放する。 躾が行き届いてる。 結構、厄介な連中だな。 「若い者が、失礼をしました、お嬢さん。」 丁寧な仕草の男に、けれど、青子は警戒を崩さない。 「どちら様ですか?」 その言葉に、男がくすっと笑う。 ・・・いや、俺も笑ってしまうところだった。 大したもんだ。 この状態で、慇懃さを保てるなんて。 「私どもですか?私どもは、貴方のお父上に害なした奴を、捕らえた者でございます。」 俺の目がすぅっと細くなった。 こいつら、青子の素性を知っている? 男を見つめていた青子の目が、丸くなり、やがてゆっくりと俺の方を向く。 俺に罪をなすりつけて、一体どうするつもりだ? 声もなく、俺と奴を見比べている青子に、男は続ける。 「こいつが、怪盗キッドですよ、貴方のお父上が長年追い続けていた。厄介な宝石泥棒でしてね、今も、私どもから、宝石を盗んだばかりで。それを返してもらうついでに、貴方のお父上の仇も討って差し上げようかと・・・。」 そのとき、彼女の腕がすっと持ち上げられた。 上に向けられた手のひらは、何かを要求している。 「見せて。警察手帳。」 繁華街をはずれた、廃ビルの上に、沈黙が訪れた。 度胸があるのか、怖いもの知らずなのか。 ・・・或いは、ものを知らなさすぎるのか。 とにかく、俺は笑いを堪えることができなかった。 と、同時に、奴の青子への苛立ちをそらせたくて。 手下共の銃口が全て、こちらに向く。 「・・・申し訳ありませんが、私どもは警察ではございませんで・・・。」 しかし、どうやら、それは承知の上のようで、青子は、男に全てを言わせなかった。 「それなら、あなた方にわざわざお手数かけさせるわけには参りません。キッドは警察が逮捕し、裁判にて断罪されるべきものですから。」 笑いが、やがてため息になる。 青子ってよりは、アホ子じゃねぇか、これじゃ。 案の定、男の顔から笑みのかけらが全て消えた。 ここまで、奴を怒らせて、お前、ただでいられるわけねぇだろう・・・。 IQ400の頭がフル回転する。 奴らから、青子を奪って逃走し、安全を確保することは可能だろうか? そのうち、俺の思考回路がぴたりと止まった。 |
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