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(3)



 天井近くまである大きな窓ガラスは、この建物の一つの目玉らしい。
 日差しが直接差し込む時は、この場所の本来の目的を妨げることもあるので、幾重にもスクリーンが張り巡らされる。
 交互に、帆布のスクリーンを張ることで、光りを分散し、室内を明るく照らし、照明電力の消費を抑えるのに使われていると、聞いたことがある。 
 上手く計算された、そのやわらかな光りの中で、つややかな黒髪が、音もなく落ちた。
 それを、細い指が、無造作にかきあげる。
 半ば伏せられたまつげが、微かに動く。
 誰にも届かぬ声が、唇の中で転がっているのだろう。
 やがて、穏やかな眉が顰められる。
 口許が、いささか不満げにすぼめられる。
 一瞬止まった全てが、再び動き出し、2、3度繰り返されると、彼女は、おもむろに一枚の付箋を取り出し、文字を追っていた本に貼り付けた。
 ・・・わかりやすい奴。
 俺は、手許に広げた本をめくることもせず、飽きることなく、目の前の彼女を見つめていた。
 待ち合わせをした図書館の、閲覧・学習用に解放されている広い部屋で、俺たちは、向かい合って、土曜の昼下がりを過ごしていた。
 裏ってものを、殆ど考えないらしい彼女は、この部屋に足を踏み入れ、眠気を避けるかのように、空席となっていた、窓際のテーブルにつき、教科書とノートを広げると、額面通り、きっちりと試験勉強を始めた。
 『わからないところがあったら、言ってみてよ。俺のわかることかも知れないから。』
 ・・・んなこと、言うんじゃなかったかな、なんて、ほんの少し後悔したけれど、静けさが支配するこの空間で、何ら咎められることなく、彼女を見つめていられることに、俺は、すっかり気をよくしてしまっていた。

 それと。
 視線を窓の外にやる。
 日差しの割に、風が冷たいのか、行き交う人々は、皆、首をすくめ、もしくは、防寒具に埋もれながら、歩いている。
 入ったばかりの仕事が、頭を過ぎった。
 いつもの、盗み出された代物。
 質素に、慎ましやかに生きる老人の、最大の楽しみが盗まれた。
 何代も前から、受け継がれ、彼の妻も、そして、彼の娘も、良き伴侶を得た印として、身につけられた宝石が、盗まれたのだ。
 その、大切な妻と娘を、同時に事故で亡くした彼が、娘が残した忘れ形見である孫娘に、その石を送る日を、どれほど楽しみにしていたか。
 孫娘が婚約を済ませた直後の悲劇に、彼は、呆然としながらも、かなりの紆余曲折を経て、俺に、奪還を依頼することにしたらしい。
 『警察に届けは?』
 俺の問いに、彼は、しわに埋もれそうな目をそっと閉じて、静かに、しかし、はっきりと告げた。
 『時間が、あまりありません。・・・それに、何より、あれを汚されたことを、はっきりと突きつけられる気がして、たまらんのです。』
 娘を持つということは、こういうものなのだろうか。
 一瞬、意識が、他に飛んだものの、俺は、ほぼ即答で、その仕事を請け負った。
 彼が、警察を信頼していないわけでも、また、うさんくさいものと見ているわけでもないことは、充分わかった。
 よくわからないけれど、依頼の動機は、彼の言ったこと、以上でも以下でもないのだろう。
 老人は深々と礼をすると、前金を置いて、もう一度、『よろしくお願い致します。』と、頭を下げた。

 それが、彼女と会う、1時間前のこと。
 老人と別れ、注意深く、周囲を警戒しながら、俺は手洗いに寄り、変装を解いた。
 使うトイレは、もちろん、出入り口が二つあるもの。
 入った口と異なる口から、外に出て、そのまま、ここへ、たどり着いたというわけ。
 日差しの中で、ぼんやりと空を眺める姿は、あのクリスマスイブの夜、雪の落ちてくる空を見上げていた仕草、そのまま。
 遠くの、何を見つめているのだろうか。
 その瞳が、好きだ・・・と、不意に心に浮かんだ感情に、ひとり照れ笑いをかみしめながら、俺に気付いた彼女に、軽く手を振った。

 初めてのデートは、実に至って健全で、それでも、彼女から、ある程度の好意を感じたことで、俺は、とりあえず満足することにした。
 彼女の勉強ははかどったようで、教科書に挟まれた付箋は、おおかた姿を消し、たんまりと感謝の言葉と微笑みを頂戴することができた。
 そして、成人式の日、行きそびれた店で、ふと、切り出してみた。
 「そだ。『快斗』って、呼んでくれよ。友だちは、皆、そう呼んでるから。」
 何気ない、素振りで。
 けれど、心の中で、彼女を引き寄せながら。 
 丸く大きな目が、俺をじっと見つめる。
 ・・・この顔にも、弱いかも知れねぇ・・・。
 そんなこと思いつつ、「な。」と念を押しつつ笑う。
 彼女の瞳が、くるりと空を揺らめき、その唇がゆっくりと俺の名をたどる。
 「快斗・・・さん?」
 ま、呼び捨ては、無理かな。
 何となく、苦笑が浮かびながらも、次に目が合ったとき、彼女は、にこりと微笑んだ。
 「じゃ、青子のことも、「青子」って、呼んでください。青子の友だちも、みんな、そう呼ぶし。」
 今まで、あまり、自分のことを話さなかったせいか、それとも、避けていたのか、彼女が、自分を一人称で呼ぶとは気付かなかった。
 けれど、どことなく舌っ足らずなそれが、彼女には、何故かよく似合っていて。
 「おし、じゃ、青子、これからもよろしくな。」
 そう言って、おどけながら、お茶で軽く乾杯をする。
 くすくすと笑いながら、こちらこそ・・・と、彼女の口からこぼれ出た、俺の名は、微妙に間が空いて、「さん」付けがされていたけれど。
 それも、又、彼女独特のもので、心地よかった。
 彼女を、その名で呼べること。これが、この日一番の、収穫だったかも知れない。
 こういうのもいいかな・・・なんて、もっと、濃厚な絡み合いをくぐり抜けてきた俺は、ぼんやり、そんなことを考えていた。

 それから、俺たちは、2〜3度、顔を合わせた。
 そう、顔を合わせた、としか言い様の無いような、淡泊なものだったが、意外なことに、それで充分、満足できた。
 短期決戦の仕事のために、俺の神経が、大半、仕事に集中していたからかも知れない。
 予想以上に、この仕事は厄介だった。
 こんな時、集中力の欠落は、命取りになる。
 ・・・青子への思いが、二の次になるのは、この場合、致し方ないか。
 やがて、念願の宝石の居所がつかめたとき、俺は、ほくそ笑んだ。
 奴らに繋がる、シンジケート上に、その石が見つかったのだ。
 時間的にはぎりぎりだった。
 老人との約束まで、時間は僅かだ。
 じっくりと、というわけにはいかないが、それでも入念な計画を立て、手はずを整えたところで、警視庁に、予告状を送りつける。
 期日は、人々の間で、やたらとチョコが取り交わされる日。
 捜査2課で、心待ちにしてた連中には、気の毒だ、と、予告状だけでも、甘めに作ることにした。
 
 予告日間近に、一度、青子に会った。
 相変わらずの無防備さに、苦笑を漏らしながらも、穏やかな愛しさが募り、不思議と、心が安らいでゆく。
 けれど、そんな青子が、何を思っていたか、さすがの俺も、知る由がなかった。
 そして、この先に何が起こるかなんて、もちろんわかるわけはない。
 ただ、青子の存在は、俺の心をあたため、寺井ちゃんの言うとおり、俺の心を揺さぶり、そして、意識してはいなかったが、凛とした力を与えてくれるものとなっていた。



 その夜。
 空に雲はなく、ただ、煌々と月が輝く。
 放射冷却で、冷え切った夜空を、俺は白く切り裂いていった。
 厳重に、警戒態勢が敷かれた場所へ、かき集めた、ありったけの情報だけで乗り込む。
 警察と、奴らの、呉越同舟とは、言い難い網をくぐり抜け、獲物をしとめ、首尾良くその場を抜け出し、グライダーの離陸ポイントに立った頃、仕事は、ほぼ完了というところだった。 


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