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 彼女の薦めで、昼食を頂くことにした。
 草履から解放されて、ほっとしたらしく、動きにくい筈の振り袖で、ぱたぱたとよく動く。
 「言えば、手伝うから。」
 と言っても、どうやら、口より体が先に動くようだ。
 だが、足を痛めて、着物である。
 何度か、キッチンとダイニングを行き来していた彼女の足下が、その一瞬、ふらついた。
 考えるより先に体が動く。
 次の瞬間には、小鉢を持った彼女が、俺の腕の中にすっぽり収まっていた。
 おろしたての着物の匂いと、うっすら化粧と整髪料の匂いが立ち上る。
 あどけなさと、清冽さに溶け込む色香に、目眩しそうで、思わず腕に力がこもった。
 閉じこめた重みが、胸の中で、身じろぎするまで、どれくらいあったのだろう。
 我に返って、ようやく腕を緩めた。
 胸元が、ぽっかり冷え込むような感覚と共に、彼女は、そっと顔を上げた。
 薄化粧の下で、真っ赤になっているのが、わかる。
 俺は、ふっと笑みを漏らした。
 「だから、手伝うって言ってんだろが。」
 あのまま、抱きしめて、例えば、唇を奪ってしまうとか(それ以上とか)、あったのだろうけれど、とりあえず、それはやめにして。 
 今は、まだ少し、ありのままの彼女を見ていたい。
 そのためには、自制心ってやつを、相当鍛え直さなければならないかも知れないけれど。
 耳まで真っ赤にした彼女が、「すいません」と言ってから、着替えを申し出たとき、多少残念に思ったけれど、ある意味、ほっとしたかも知れない。

 足早な冬の太陽が傾ぐ前に、俺は、青子の家を辞した。
 1人住まいの女の子の家に、野郎がいつまでもいてたら、妙な噂の一つでも立つだろう。
 ・・・彼女を知ってる人間なら、そんなことは、ないだろうことは、簡単に想像がつくだろうけれど。
 他愛もない話をしながら、過ごすひとときは、ともすれば、駆け引きだけで人とつき合ってるような俺には、かなり心地の良いもので。
 ずっと、父親と二人だったから、地味なものしか作れなくて、という食事は、懐かしいような味がした。
 そういえばと、ふと口許がゆるむのに気付き、俺はさりげなく、俯く。
 とりあえず、次のデートも取り付けた。
 いや、世間的には、あれはデートと呼べるものでないのかも知れない。
 後期試験対策なんて、まるで、高校生じゃねぇかと苦笑いしてしまうけれど。
 ま、いいや。会えるなら。
 自然と足が、軽くなる。
 俺はそのまま、ぶらぶら歩く。
 そこここで、成人式を祝う、妙に軽いバカ騒ぎの声が聞こえる。
 そんなものを、まるで、無いもののように聞き流し、俺は、以前から、目を付けていた辺りを偵察がてらにふらついて、やがて、寺井ちゃんの店へと足を踏み入れた。
 
 店の客が来るには、少し早い時間。
 さすがに、若い連中も、この素っ気ない店には、目もくれないようで、寺井ちゃん1人が、グラス磨きに余念がなかった。
 「おはよ。」
 ひとこと告げて、俺は、更衣室へと足を運ぶ。
 もちろん、その時、寺井ちゃんがちらりと俺を見たなんて、気づきもしなかった。
 中途半端な時間に、昼飯を食ったものの、充分、運動したから、腹が減って。
 途中で、仕入れてきたサンドウィッチを片手に、店を覗くと、まだまだ、客の来る気配がない。
 「寺井ちゃん、飯、そこで食っていい?」
 とりあえず、一声かけて。
 寺井ちゃんは、「どうぞ」と言いながら、おもむろに、コーヒーの豆を挽き始めた。
 純粋に飲み屋でありながら、コーヒーの香りがするなんて、この店くらいだろう。
 ミルクたっぷりのカフェオレに、感謝しつつ、俺は、次々にサンドイッチを平らげた。
 一通り食ってしまったところで、寺井ちゃんは、おもむろに、手を止めた。
 「坊っちゃま。こういうことは、くどくど申しあげたくはありません。けれど、これだけは、言わせていただきます。最近、注意力が散漫でございます。その ことについて、恐らく、ご自分で思っておられるより・・・です。どなたに心惹かれようと、この寺井、とやかく申しませんが、その浮き足だった心に、間違い なく足下をすくわれます。生半可なお気持ちは、身の破滅につながりますよ。」
 しばし、沈黙が流れた。
 カフェオレボウルを両手で暖めていた俺は、カウンターの木目を眺めていたが、ふっと息を吐いた。
 確かに、寺井ちゃんの言うとおりなのはわかっている。自覚があるのだ、この恋には。
 狂おしいほどに彼女を求める心と、いつまでも、そのそばで、微笑みを見ていたい気持ちと。時折、翻弄される感情に、自分で、苦笑いしてしまうほどだから。
 寺井ちゃんから見ても、そんな風に見えるのなら、かなり重症だろう。
 いくら、俺が、寺井ちゃんの前では、ポーカーフェイスも甘くなるといったところで、常人には、そんなことさえ、わからないはずだから。
 仕事の出来については、あれこれ小うるさいこともあるけれど、基本的には、俺のやることに口を挟むことはない。
 その寺井ちゃんが、一気にこれだけのことを言ってのけたこと自体、珍しいことでもあったのだけど。
 痩せても枯れても、怪盗キッド。
 そんなプライドもあったのだろうか。
 「わかってるよ・・・。」
 そんな、いつもの言葉しか出ず。
 しかし、寺井ちゃんの危惧は、他にあった。
 「ぼっちゃま、ほころびは、どこから広がるかわかりません。あの、お嬢さんが絡むと、いつもの冷静さを忘れてしまう、ぼっちゃまが、気がかりなのです。」
 ちらっと、一瞥すると、寺井ちゃんがため息をつくのが見えた。
 「ぼっちゃまの様子を見ていると、まるで、彼女に、全てを明かそうとしているような・・・」
 ガタン!
 椅子を動かした音に、寺井ちゃんは、口をつぐんだ。
 俺は、カウンターに手をついたまま、暫く黙っていたが、サンドイッチの包みと空っぽのカフェオレボウルを持つと、「ごちそうさん」の一言を残し、奥の控え室に足向けた。
 「んなこたねぇよ。彼女に全て明かしたって、何のメリットもねぇからな。」
 そう言い残して、戸を閉める。
 メリットなんて、無い。
 彼女を傷つける以外に。


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