光の中で、彼女が動く。 そのなめらかな動きを、俺は、ただ、感じている。 見つめたら、きっと、彼女は、不思議そうに、どうしたのか尋ねるだけだろう。 それは、俺には切なすぎて・・・。 かと言って、このまま、黙ったままというのも、どことなく不自然で。 洗い物を終えた彼女が、ぽってりとしたマグを手に、目の前に腰を下ろすと、俺は、ようやっと、彼女の瞳に視線をやった。 「先日亡くなったって・・・この前会った時って、親父さんの・・・?」 あえて、そんなことを尋ねてみた。 キッドならいざ知らず、クリスマス・イブに初めて出会った黒羽快斗は、そんなこと知る由もない。 「はい。・・・殉職・・・だったんです。」 尻すぼみに小さくなる声に、彼女の傷をえぐっている自分を思い知らされる。 「警察官だったんです、父は。あの3日前に大きなけがをして、そのまま・・・。」 「悪いこと聞いて、ごめん。・・・まだ、辛いよな。」 ・・・そんな義理なんてないんだから、適当にお茶でも濁しておけばいいのに。 正直に、そのまま話す彼女が、痛々しくて、それ以上、聞くことが出来なくなった。 けれど、寂しげなほほえみを浮かべながら、彼女は、静かに続ける。 「辛くないと言えば、嘘になるけれど、・・・父は、いつも、警官は危険と背中合わせだからと、言っていましたので。」 そっと伏せたまつげが、かすかに震える。 「無理すんなよ。理屈と感情ってのは、ずれて当たり前なんだから。」 口をついて出た言葉に、彼女が視線を上げた。 まっすぐな、翳りのない瞳を。 そして、・・・微笑んだ。 天使のそれではない。 表現のしようのない、静かで、穏やかな微笑み。 それは、どこか、人知れぬ泉のように澄み切っていて、俺は、その微笑みに、釘付けになってしまった。 いや、魂を持っていかれたと言ってもいいかも知れない。 「ありがとうございます・・・。」 彼女が、そう口にしなければ、きっと俺は、際限なく見惚れてしまっていただろう。 俺は、少し俯いてから、ゆっくりと顔を上げる。 そして、ちらりと、時計に目を走らせてから、持参した紙袋をついと差し出し、 「この前、ミルク入れてくれた、バーテンダーいたろ?寺井ちゃんっていうんだけど、彼の御用達の店のパンなんだ。良かったら食ってくれよ。」 何かと、小うるさい寺井ちゃんのお眼鏡にかなったパン屋だからな、と、つい、可笑しくなる。 「え、いいんですか?黒羽さんは、朝ご飯は・・・」 内心おいおいと冷や汗をかきつつ、それを断って、とりあえず、退散することにした。 小首をかしげて、軽くお辞儀をする姿に、俺は片手を上げて背を向ける。 ほんの1時間足らずのことだったろうか。 まるで1年分の幸せを感じつつ、最後の1日を過ごすため、彼女の家を後にした。 暫く歩いて、ほっと肩から力が抜けて、思わず苦笑した。 珍しく雪の積もった日など、ついつい、その真っ白な上に足跡を付けたくなるとか、澄んだ泉が涌いていれば、何となく、底の砂を掻き回してみたくなるとか。 そんなことをするのは、ガキだと言われてしまいそうだが、そういう気分、わかるだろ? 彼女の前にいる俺は、間違いなく、そんなガキと同じだ。 悲しみは、抱えているだろう。 少なくとも、その事実は知っている。けれど、それ以外に、なんら穢れたものを感じさせない彼女を、ともすれば、思うまま、かき乱したい衝動に駆られる。 けれど、そんなことを許せない心が、自分の中にあることも、不思議ながら、事実。 それが本性と理性の違いなのかどうかわからないが、俺の心の中では、既に、そんなものがせめぎ合うようになっていた。 もう一度、会いたいな・・・。 早朝の冷たさは消えたものの、やはり、どこかピンと張った空に向かい、俺は、小さく一つ、白い塊を吐きだした。 帰り着いたのは、とあるマンションのロフト。 閉めたままのリビングのカーテンを開けて、部屋を見回す。 男の一人暮らしにしては、片づいている方だと思う。 ・・・当然だ。 万が一の場合に備え、やばいものが出てこないよう、細心の注意を払っている。 そのせいか、意識せずとも、意図的なもの、緊張をはらんだものが漂っている。 それが、今日はやけに鼻について、珍しく、疲労を感じた。 視線を脇のドアに移す。 どうしようか、一瞬迷うものの、そのまま扉を開けると、薄暗い部屋の中へ足を踏み入れる。 柔らかなベッドが、一気に眠気を誘う。 半ば、意識を沈めたまま、服を脱ぐと、俺は、布団の合間に潜り込んだ。 そして、結局、最後の1日は、睡眠に費やされたのだった。 |
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