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 普段なら、日の昇った歓楽街など、厚化粧を落としたようなもので、何とも言えない、侘びしさや白々しさを感じるものだが、さすが年の瀬。
 なんだかんだとゴミだらけの街が、妙にこざっぱりしていて、しめ縄や、門松などの飾りに、どことなく、気が引き締まる。
 と、同時に、ふと、女の言葉が思い浮かんだ。
 ・・・こんな時期は、何故か「家族」なんてものを思い出すから・・・
 夜の顔がなりを潜め、人々が表の顔で活動を始める時間。
 俺は、つっと、道を脇に逸れ、寺井ちゃん御用達のパン屋に立ち寄り、適当にいくつか放り込むと、一路、青子の家を目指した。
 何も考えちゃいない。
 人を訪問するには、非常識な時間だとか、まだ、1度しか、面識がないとか(俺は、毎日行ったけどさ)、そんなことは、頭の隅にうっちゃって。
 今を逃せば、きっと、もう、関わることはできないだろう・・・そんな思いに背中を押されて。

 あの雪の日、ちんたら車で走った道を、今日は、歩いてたどる。
 いや、さすがに、こんな早くに、ちょっとまずいかな・・・なんて思ったから。
 腕に抱えた紙袋からは、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂って、それが、遠い記憶とだぶる。
 世の中の裏なんて、ひとつも知らなかった頃の、日常が、永遠に続くと信じていた、幼い頃。
 どれくらい歩いただろうか。
 とりあえず、寝込みを襲わなくて良いような時間に、俺は、その場にたどり着くことができた。
 小脇で袋が、かさりと音をたてる。
 呼び鈴のボタンの前で、戸惑っているうち、玄関の鍵が音をたてた。
 中から顔を出した彼女と、目が合う。
 驚いた、丸い目。
 「や、おはよ。」
 ・・・それ以外に言葉など見つからなくて。
 軽く挙げた片手を振って、俺は、とりあえず、笑ってみせた。
 ・・・他に・・何ができるっていう?
 少しでも、困った顔を見せれば、パンの袋だけ渡して、帰ろうと思っていた。
 堅気で、寝ている人間は、もういないだろうが、人を訪問するのに、妥当な時間だとは言い難い。
 それこそ、散歩がてらに寄ってみたとでも言って・・・なんて考えていたら、彼女は、吹き出すように笑って、こう言ったのだ。
 「おはようございます。今日は、お早いんですね。」
 ・・・今日「は」?
 ちょっと待て。
 それは・・・もしかして・・・
 「何度か、来られたでしょ?えっと・・新聞の勧誘とか・・・。一杯、お仕事されてるんですね。」
 ちょこんと、目の前に歩いてきた彼女に、呆気にとられる。
 ・・・気付いてたのか?
 にしても、お仕事って・・・。
 「あはは・・・師走だし・・・。」
 これって、理由になってんのかな。
 青子は、ばれてたことを知って、内心うろたえる俺に気付かないようで、にこりと笑ってみせる。
 「今日も、寒いですね。お茶でもいかがですか?」
 そのかわいい口からこぼれた言葉に、俺は一瞬、固まっちまう。
 「・・・え?」
 「あ、もし、時間がおありでしたら、お茶でも・・・って思ったんだけど。お忙しいんですよね・・・」
 ちょっと慌てたような青子に、俺の言葉がオーバーラップした。
 「いや、もう、今日は、これで終わり!お茶、ごちそうになります。」
 例えば・・・だ。
 やすやすと、オオカミを自宅に招き入れる赤ずきんに出会ったら、オオカミって奴は、どんな風に振る舞うのだろう。
 頭の中に、ちらりとそんなことが浮かぶが、実際のところ、行動にそんな余裕はない。
 どう見たって、彼女の笑顔には、下心のかけらもないだろうし、喜んでいいのか、悲しんでいいのか、こちらの下心を解している様子も、又、かけらもない。
 ここ数日から、今に至る、一種、ストーカーのような奇妙な行動を続けた俺を、何のためらいもなく、招き入れる彼女に、おいおいと半ば呆れつつも、心のどこかが暖かくなる。
 いつの間にか、忘れ去っていたものを、思い出させる存在。
 「どうぞ。」と門扉を開けて、玄関へと誘ってくれた彼女に、俺は、素直に、ついて入った。

 「お邪魔しま〜す。」
 玄関先で、大きな声を上げると、彼女は、にっこり微笑んだ。
 「どうぞ、何もおかまいできませんが。」
 靴を脱いでいると、鼻をくすぐる、独特の香に気付く。
 開け放たれた窓から、朝の光が降り注ぎ、冷たい年の瀬の空気が、家の中に満ちている。
 それは、リビングの片隅にある、サイドボードの上にあった。
 焚きしめたれた、線香の煙が、光の中で、緩やかな軌跡を描く。
 俺の視線に気付いた彼女は、「あ・・・」と、小さな声を上げ、何か、言おうとしたけれど、俺は、にっこり微笑んで、振り向いた。
 「挨拶して、・・・いい?」
 くるっとした目が、少し見開かれる。
 そして、次の瞬間には、少し寂しそうな面差しを浮かべながらも、柔らかく微笑んで、俺をその場へ誘った。
 「母と、・・・先日亡くなった、父です。」
 サイドボードに載っかるほどの小さな仏壇には、位牌が一つ、ぽつんと佇んでいた。
 そこに書かれた、2つの名。
 「母が亡くなったときに、父が、自分の戒名まで、つけてもらっちゃって、位牌を一つにしたんです。そうすると、長生きするって、言って・・・。」
 そう言えば、そういう話、どこかで聞いたことがある。
 「仲が良かったんだね、ご両親。」
 そう言いながら、俺は、鐘を鳴らして、合掌した。
 心の中で、深く深く、首を垂れて。
 この機会を与えてくれた、青子に感謝して・・・。
 信心深くなんて、ちっともないけれど、どこかで、心の重荷が、ひとつ解かれた気がして。
 顔を上げると、青子が、キッチンに立って、にっこり微笑んでいた。
 「コーヒーにされますか?紅茶にされますか?」
 「あ、コーヒー。」
 そう、答えた俺のために、青子は、わざわざ、コーヒーを淹れてくれた。
 どうやら、彼女は、紅茶を飲んでいたようで。
 「わざわざ、わりぃ・・・」
 頭をかいた俺に、青子は、手元を見ながら、やわらかな笑顔を浮かべた。
 「いいえ。コーヒーを淹れるのは、結構すきなんですよ。」
 誰のために?
 どんなときに?
 こんな風に、微笑んで?
 「わ、美味そ。サンキュ。」
 その瞳を独り占めしたいなんて、おくびにも出さず、俺は、差し出された、薫り高くほろ苦い、その液体を喉に滑り込ませた。


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