『青子〜、黒羽君だって、ふつ〜の男の子なんだからね。』
 「うん。」
 『あんまり、焦らしてると、かわいそうよ〜』
 「・・・うん?」
 『まぁ、彼もわかっちゃいるだろうけど、ほどほどにね〜。』
 「・・・???」
 友達のからかう言葉。
 そう、どうも、言ってる言葉の意味が、いまいちしっくりこないのだけれど、その口調や様子から、からかってるのだろうということまではわかった。

 ・・・どうして、今頃、思い出したんだろう。
 暗い部屋の中で、灯りもつけずに、青子はベッドに頭を乗せて、座り込んでいた。
 道中、堪えていた分、部屋に戻るなり、涙はとどまることなく、溢れて。
 ・・・きっと、友達がいつもからかう、その「言葉」は、さっきみたいな・・・ことだったんだ・・・。
 怖かった。
 出会ったあの日から、長いつきあいになるけれど。
 いつも、ふざけていて、むっとするようなことも言って、からかったり、どきっとするほど、かっこいい面を見せてくれたりするけれど、今日みたいに、怖いと思ったことなどなかった。
 青子だって、ラブシーンなんてもの、知らないわけじゃない。
 映画やドラマでは、なにかと登場するものだ。
 ・・・でも・・・快斗が・・・
 最初に怖かったのは、暴れ回る雷だった。
 けれど、背中に、熱い吐息を感じた瞬間、雷の存在など消し飛んで。
 素肌が触れ合って、熱を感じて、頭の中が真っ白になった。
 声を上げるまもなく塞がれた唇の感触、身動きひとつ取れない腕の力、そして、胸の膨らみをまさぐる熱い手。
 でも、一番、驚いたのは、快斗の顔。
 腕の中で振り向かされたときの、一瞬に垣間見えた快斗の表情は、追いつめられたような、真剣な面もちで、そして、青子を見ているようで、遠くを見ているような気がして、青子の胸の中に芽生えた恐怖心を、否応なく煽った。
 なのに、それもこれも皆、青子のせいだと、快斗が言っていた。
 ・・・どうして?青子の、どこが、悪かったんだろう。
 ・・・明日から、快斗の前で、どんな顔をすればいいの?
 ・・・青子は、なんて言って、快斗に謝ればいいのだろう・・・
 思考が、どことなく支離滅裂に、また、ずれていくことに気付くこともなく、青子は、混乱したまま、眠れぬ夜を過ごした。



 少し、具合が悪そうなのに、「大丈夫?」と問えば、青子は、にっこり微笑んで、「ちょっと夜更かししちゃっただけだよぉ」などと、精一杯明るく答えてみせる。
 ふざけあっていても、悪戯な話を持ち込んでみても、どことなく上の空のくせに、ちょっとつつけば、「なんでもねぇよ。」と、快斗は軽くかわしてみせる。
 けれど、そんな2人が、気まずい状態であることは、クラスの誰が見ても一目瞭然で。
 「どうにかした方がいいんじゃないの?」
 なんて、声が、どこからともなく出たりするけれど。
 結局のところ、犬も食わないことだろう・・・ということで、そのまま数日が過ぎた。
 

 「ねぇ、青子、やっぱ、顔色良くないよ?体育、休んでた方がいいんじゃない?」
 心配そうな声に、青子は、いつものように、笑ってみせる。
 「大丈夫だよ、恵子。」
 そう言いながら、更衣室を出たところで、青子は、思いっきり目を細め、空を仰いだ。
 一段と暑い日差しが、容赦なく照りつける。
 「ふわ〜、今日も暑いなぁ。ほんっとに、プール日和だね。」
 「ほんとだね〜」
 眩しすぎる光が作る陰が、青子を捉える。
 やがて、陰は闇へと広がり、あっと思ったときには、青子は上も下もわからない混沌とした世界に、引きずり込まれていた。

 「よぉ、さっき聞いたんだけどよ、中森の奴、プールで、ひっくり返ったらしいぜ。」
 「そういやぁ、ここんとこ、あんまし顔色良くなかったよな。」
 「へっへ・・・けどよ、あれだな、桃井の野郎、水着のまんま、走っててよ。結構目の保養になったぜ〜」
 柔道場で、乱取りをしながらそんな会話をしていた男子生徒2人は、一呼吸おいてから、おもむろに出口に目を向けた。
 まっしぐらにそこから出てゆく影ひとつ。
 それを見てから、2人は、ほっと息をついた。
 「たくよぉ、中森も、黒羽も、意地を張り始めたら、際限ねぇからなぁ。」
 
 快斗は必死で走っていた。
 だぼっとした柔道着が風をはらんで、意外な抵抗を作る。
 ・・・倒れた・・・?
 いや、あの日から、ずっと具合が悪かったのは知っている。
 しかし、それ以上に、2人の間は気まずくて。
 ・・・プールでって・・・中か?それとも、サイドでか?
 もっと、早くに、謝っていれば、例えば、倒れる前に、青子を休ませたりできたかも・・・
 いや、たら、ればなんて、言ったって仕方がない。
 過ぎたことも、起こったことも、その前に戻ることはないのだから。

 保健室の戸を開けると、そこには誰もいなかった。
 「・・・先生?」
 ・・・まさか、病院へ運ばれたのだろうか。
 回転のいい頭が、どんどん、悪い事態を考えてしまう。
 「・・・ん・・・」
 その時、カーテンの影で、微かな声がした。
 「・・・青・・・子?」
 ほんの少しの逡巡の後、そっとカーテンを開ける。
 しかし、次の瞬間には、それを、ぱっと閉じてしまった。
 ベッドを取り囲む小さな空間なんて、もっと大きな場所の間取りさえ、1度で頭に入ってしまう快斗には、その一瞬で、見渡すに充分だった。
 ベッド脇の椅子に置かれた、制服。
 その、きちんと畳まれたセーラー服の下から、下着のストラップがこぼれ落ちていて。
 「・・・水着のまんまで、寝てんのかよ。」
 ふんわりと掛けられた布団の下にある、青子の体が、否が応でも頭の中に浮かんでくる。
 ・・・ったく、こんなときにまで・・・。
 まぁ、ふつ〜の男の子だから、仕方ないと言えば、そうなのだけれど。

 我ながら身勝手な熱に、すったもんだしているうち、この部屋の主が帰ってきた。
 「あら、黒羽君、どうした?捻挫でもした?」
 さすがに、快斗も慌てたものの・・・こういうことは、保健教諭の方が一枚上手で。
 「な〜んてね。中森さんでしょ?大丈夫。単なる、寝不足よ。何たって、ここんとこ、殆ど眠れてないなんて言ってたから。」
 ・・・寝不足・・・大したことがなくて、快斗はほっと安堵した。
 「けど、プールで倒れたって・・・」
 「あぁ、更衣室出たところで、へたり込んだみたいだから、外傷も無しよ。心配なんだったら、ちゃんと、中森さんに言い聞かせとくのね。寝不足は美容と成長の大敵よって。」
 ・・・成長って・・・
 なんか、ちょっと腹立つ。
 いや、あそこやここの成長未熟は、俺だって、しょっちゅうからかいのネタにするけれど、他人がそれを指摘するのは、・・・なんだかな・・・。
 「さ、授業中でしょ?気になるのはわかるけど。今、寝入ったところだから、寝させてやりな。」
 さっさと、書類を出して、仕事を始めた教諭は、答えるテンポが遅れた快斗を、ちらっと見やった。
 「それと、あんまり、中森さんを悩ませるなよ。あんたのことだから、充分わかってるとは思うけど。」
 ぎょっとして、そちら見ると、彼女は、優しげな色を浮かべて微笑んだ。
 「う〜ん、ビンゴ!やっぱ、中森さんにとって、男の子といえば、黒羽君なのね。がんばれよ、男の子。」
 なんだか、意味不明だが、言ってる教諭本人、詳しいことはわかってないのだろう。
 それでいて、その憶測は、かなり図星を指しているように思われる。
 それ以上、突っ込まれるのは避けたいので、快斗は、とりあえず、その場を辞した。
 「鋭意努力します。」
 と、一言残し。


 


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