青子が目を覚ましたとき、ベッドを囲む白いカーテンは、ほんのり、茜がかっていた。
 ゆっくり周りを見回し、やがて、そっと体を起こす。
 どこか、肌寒い気がして、何気なく自分の体を見て、青子は、あたふたと周囲に目をやった。
 「あ、あった・・・」
 畳まれた制服に手を伸ばすと、慌てて、着替える。
 「ん〜?中森さん、起きたぁ?」 
 カーテンの向こうから、保健教諭の声がする。
 「あ、はい、起きました。・・・あの、今、何時ですか?」
 セーラー服をかぶり、靴下をはいて、水着入れをひっつかむと、青子は、カーテンを開ける。
 「ん〜、もうすぐ、門限よ。」
 この教諭は、何故か、下校時刻のことを門限という。
 「私、そんなに寝てたんですか?」
 「ど?久しぶりに、たっぷり寝た気分は。」
 窓の外の、夕焼けに目をやりながら、青子は、少し元気な笑みを見せた。
 「はい、気持ちよかったです。」
 それを聞き、教諭は、くすりと笑いを漏らす。
 「けどね、寝るのは、家の布団の中にしときなよ?ここは、一応、勉強しに来るところだから。」
 「一応ですか?」
 「そ、一応。」
 思わず、2人で吹き出して。
 それを確かめた教諭は、ちょっとまじめな顔をして、青子を見つめた。
 「勉強ってのは、何も机の上でするものだけじゃないよ。人は皆それぞれで、分かり合えることもあれば、分かり合えないこともある。そう言うことを知っていくのも、また、勉強だからね。」
 その言葉に、青子の顔に翳りがさす。
 「でも、だから、だめっていうのは、寂しいでしょ。そこから、自分がどう対処していくか、考えるのも、充分、勉強だよ。じゃ、気をつけて、お帰り。」
 見透かされたような、そうでないような、曖昧な言葉。
 それでも、いくらか、心が軽くなった。
 必要以上に、袋小路に入り込んでいた自分が見えたから。
 「はい。どうもありがとうございました。」
 お辞儀をすると、教諭は、ひらりと手を振って。
 辞した青子は、鞄を取りに行くべく、教室へと足を向けた。
 夕暮れは、やはり急速にやってくる。
 部活の声を、遠くに聞きながら、青子は足早に廊下を抜ける。
 そして、教室の前に立ったとき、その足が、止まった。
 「快斗・・・。」
 ぼんやりと、窓の外を見ていた快斗が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
 「よぉ。」
 人気のない教室は、妙に音が響く。
 「・・・どうしたの・・・?」
 ほんとうは、「待っててくれたの?」と聞きたかったけれど。
 そんな虫のいいこと、あるんだろうかと思い直して。
 「・・・待ってたんだよ、おめぇのこと。」
 ため息混じりに、快斗が答える。
 トクンと、鼓動がひとつ。
 待っててくれたのだということと、逆光になった快斗の眼差しが、切なそうに見えたから。
 「他に、まだ、なんか、用でもあんのか?」
 青子の鞄を持って、快斗は腰を下ろしていた机から、降りる。
 どんどん近づいてくる快斗に、何故か、声ひとつかけられなくて。
 「ほら、帰るぞ。」
 すれ違ったとき、耳元に降りてきた快斗の声に、青子は胸が熱くなった。
 いつもの、快斗・・・だったから。

 夕焼け空の下、2人で並んで、歩く。
 言葉が出てこないけれど、こうやって、2人でいると、どこか気持ちが穏やかで。
 青子は、そっと、隣で歩く快斗を見上げた。
 沈み行く日差しのせいで、陰影のついた面差しが、いつになく大人びて。
 見惚れてしまった、その瞬間、視線が降りてきた。
 「ん?」
 意図して逸らすわけでなく、青子は、視線を、前に戻す。
 「うん・・・」
 大人びて見えたのは、男の人に見えたってこと。
 それは、きっと、何でも知ってると思っていた快斗の、知らない面が垣間見えたから。
 いくら、長いつきあいと言えど、何でも知ってるなんて思うのは、もしかしたら、思い上がりというものかも知れない。
 知らなかった快斗を知ってしまった後、じゃぁ、自分は、「どう対処すべき」なのか?
 「青子・・・」
 秋の近い夕暮れらしく、少しひんやりした風が、快斗の小さな声を運んでくる。
 「なぁに・・・?」
 返事はしてみるものの、それは、殆ど条件反射。
 ふと、片腕が、うすら寒なって、青子は足を止めた。
 隣で歩いていた、快斗が、2、3歩後で立ち止まっている。
 心持ち、勢いのある風が吹いて、首筋の髪がふわりと浮いた。
 幾分、重たげな快斗の口が、ゆっくり開く。
 それを、まるで、遠い昔の映画フィルムのように見ていた青子の中に、言葉にならない答が浮かんだ。

 「この間は・・・悪かった。」
 切なげな表情が、逆光ながら、伺い知れる。
 「・・・」
 なんて答えたらいいのだろう。 
 平気だなんて言えないし、いいよと答えるのも、なんだか、傲慢だ。
 怖かったのは嘘じゃないし、ショックだったことも、隠せやしない。
 けれど・・・。
 「青子も・・・ごめんなさい。」
 これは、喧嘩両成敗だよね?
 きっと、そうなんだよね。
 快斗が、ぽかんとした顔を見せたけど、きっと、今の青子は間違っていない。
 そりゃ、年かさのいった人や、青子自身が口にしていた言葉が、実際のところ、何を意味するか、わかってなかったってこと、今更なのかも知れないけれど。
 でも・・・
 青子は、青子の快斗に対する気持ちは、きっと変わらない。
 この、ほんの少しの距離を、快斗がゆっくり詰めてくる。
 そして、青子の傍らにそっと立って、優しい眼差しをくれた。
 怖かった快斗と同じくらいに、知らなかった眼差しを。



 茜を帯びた夕日が、青子の顔に、微妙な陰を作る。
 そのせいなのか、少女のように清冽でいながら、大人の女ってやつを、そこはかとなく感じさせる。
 傷つけた・・・その想いが、日ごと夜ごと、重く心をさいなんで、そのくせ、不可抗力だなんて思いから、青子の前では、素直になれなくて。
 どっちつかずで中途半端なまま、ただ無駄に時間を過ごしてきたのに、それを一気に拭い去る、微笑み。
 一方的に、どちらかが悪いとか言わない辺り、正直者だよな。
 ・・・その分だけは、俺が傷つけた。
 でも、もしかして、少しはわかってくれたのだろうか。
 この俺の、身勝手な葛藤って奴を。
 だとしても、喧嘩両成敗・・・ってわけには、普通いかねぇだろうに・・・。
 そんな風に思ったけれど。
 青子の、瞳は、そよぎ始めた秋風よりも澄んでいて。
 許されたことに、胸が震えて。
 俺は、引き寄せられるように、その傍らに立った。
 愛しい・・・ってのは、こういう感じ、なんだな。
 あの、雨の日の、何が何でも、触れたい、手に入れたい・・・っていうのとは、全然違う。
 今も、こうやって、傍らに立っていると、場所なんて、気にすることなく、抱きしめたくなるけれど、・・・違う、もっと違う、なんだか、胸の底が、ゆっくりと熱くなっていく感じがする。
 「青子・・・」
 間違わない。
 今度こそ。
 想いを置き忘れた、欲望だけで、お前をかき抱きたくない。
 いつか、2人で、見つけよう?
 2人だけで見つけよう?
 心と体を重ねて、手に入れられる、未だ知ることのない、最高の幸せを。
 その為には、俺達には、お互い、もう少し、時間が必要なのかも知れないけれど。



 微かに小首を傾げ、青子は「?」といった表情で、俺を見上げる。
 子供達の、走り去る音、通り過ぎる車の音・・・
 夕刻の、いつもの音がいつもの景色を彩る中で、小さな小さな音が耳に響いた。
 目を丸くした青子の、頬が一気に紅く染まる。
 「サンキュ・・・」
 そう、心底そう思ったから。
 小さな肩に、軽く手を回し、何事もなかったように歩き始めると、青子は、俺の唇が触れた口元に、そっと手をやって、恥ずかしそうに、俺を睨んだ。
 ・・・んな、可愛い顔して、睨んだって、逆効果だって。
 そんな、不埒なことは、とりあえず、腹の中に収めて・・・と。
 「快斗!外で、なんてことするの・・・!」
 そんな言い方するからさ。
 「なら、家の中ならいいのか?」
 って、ちょっと意地悪言ったつもりだったのに。
 「・・・うん。」
 なんて、耳まで真っ赤にして言うから。
 ポーカーフェイスを保つ振りをしながら、沈みゆく太陽と同じくらい、自分の顔が火照ってしまうことになってしまった。

   

 そのうち・・・な?
 俺にしては、ちょっと不確かな、予告状。
 それを、青子は、くすっと笑って、受け取った。
 そのうち・・・ね?


fin.


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お久しぶりの、快青ばなし。
 こちらへ置くか、屋根裏部屋へ置くか、
かなり迷ったのですが。
 敢えて、こちらへ置きました。
 彼氏と彼女としての快青は、
こちら、初のお目見えです。
('03.07.9
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