「…和葉?」
 玄関の扉を開けて、俺は、眉しかめた。
 この時間やったら、帰ってへんはずあらへん。
 どっか、買いもんでも行ったんやろか。
 けど、玄関には、あいつの靴が揃えて置いたある。
 薄暗い中で、急に不安が広がった。
 「和葉?・・・和葉!」
 ベッドはきれいに整えたあるし、台所にも手洗いにもおらへん。
 2DKの我が家は、和美の住んでたマンションより遙かに小さいはずやのに、おるはずの和葉の気配が感じられんで、俺は焦った。
 ・・・あ、風呂。
 唯一探してへんとこを思い出して、慌てて洗面所を開けた。
 脱衣かごに、今朝、あいつが着とった服が入っとった。
 ・・・夫婦になったからいうて、やっぱ、ちょっとどきっとする。
 いやいや、こんなんでひとり赤面しとる場合ちゃうて。
 「和葉?俺や。風呂入っとんか?」
 声をかけてみたが、薄暗い曇りガラスの向こうからは、何の返事もない。
 「…和葉?」
 急に心臓がどきどきしてくる。
 悪い想像がいっぺんに押し寄せてきて、俺は、返事のないまま、風呂の戸を開けた。
 「か・・・」
 一瞬、心臓が止まる。
 無意識に、手が明かりを点けた。
 「・・・和葉・・・。」
 止まるわけないんやけど、止まったように思うた心臓はドックンいうて、動き出した。
 湯船につかっとった和葉が、とろんと目を開けた。
 「あ、平次、お帰り・・・。」
 「お前・・・風呂ん中で、居眠りなんかすなよ。」
 そう、和葉は、湯船の縁に頭を乗せて、居眠りしとった。
 「あ、寝てもたんや。もう、今日は、くたびれて・・・。」
 なんや、まだしゃきっと目の覚めへん和葉の額に、そっと手ぇ置いて、そのまま前髪をかき上げた。
 ・・・ほんまは、そのまま抱きしめたかったんやけど・・・。
 そのまま、じっと俺を見返してくるでかい目に、俺はどんな顔して映っとったんやろ。
 「・・・平次・・・。」
 俺は大げさにため息ついてみせると、和葉の頭をわしわしとかき混ぜた。
 ・・・お前は、俺を信じてくれるか・・・。
 ・・・お前を守りたい、いう、俺を信じてくれるか・・・。
 「平次〜、何すんねな。」 
 難儀やな、言うように顔をしかめる。
 「アホか、お前。んなとこで、居眠りなんかしとったら、沈んでまうで。」
 「アホだけ、余計や。」
 「はっ、でかい尻つっかえて、滑らへんなんて、思うなよ。」
 「あ〜、ひっど〜!」
 軽い、掛け合い漫才。
 俺が憎まれ口叩いてまうんは、もしかしたら、そうやってあいつの様子をはかっとんのかもしれん。
 多少、ぎこちなさを感じひんわけやないけど、概ねいつもの和葉に、内心ほっとしてたら、あいつの眉がハの字に寄る。
 「平次・・・。」
 そのためらいがちな口振りに、俺は正直ひやっとした。
 ・・・いくらなんでも、心の準備っちゅうもんが・・・。
 「・・・なんや?」
 言いにくそうな和葉に、俺の頭はフル回転。
 そうや、決めたとおりに、犯人は和美、動機は・・・。
 「・・・あたし、風呂、上がりたいねんけど・・・。」

 漫才の基本は、ぼけとつっこみの間合いの妙。
 その間が抜けると、「間抜け」ちゅうことになるんやけど。
 慌てて、風呂場から出た俺は、絶対、間抜け面をしとったはずや。
 情けないことに、自覚があった。
 台所で、麦茶を飲む。
 ・・・もう、ぼちぼち、こいつの出番も終わりやな。
 そんなこと考えとったら、和葉が風呂から上がってきた。
 「カレー作っといて、よかったわ。平次、ご飯にする?」
 のんびりしたような声やけど、微妙に俺と目を合わさん。
 気にならんわけ、あれへん。
 今日1日、俺にとって、しんどい1日やったけど、あいつは、それ以上に辛かったはず。
 飯より先がええか、後がええか。
 考えるより先に、俺の腹が返事しよった。
 その瞬間、吹き出したあいつと目が合う。
 「すぐ、ぬくめるわ。」
 せやけど、その笑顔は、いつもの半分もあれへんかった。



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