マンションの下に降りていくと、和美を乗せたパトカーが出ていった。
 俺は、のろのろとワゴンに近づくと、「ほいっ」とボタンを二つ返した。
 「一応、全部録音したし。」
 「ん・・・。」
 俺には、それしか答えられへんかった。
 とにかくこれから先は警察の仕事や。事情聴取に付き合う気にもなれん。
 ふと見ると、ワゴンの陰から人影が現れた。思わず俺は絶句する。
 「平次・・・。」
 和葉の親父・・・。だいぶ、頭も白なって、定年退職が射程距離に入ってる。
 「おやじさん・・・。」
 そこまで言うたところで、親父さんは哀れむような、慈しむような、そんな顔をした。
 「全部、聞いた。・・・どうする。」
 今、俺は一体どんな顔してるんやろか。
 「平次。すまんけど、和葉、頼むわ。」
 親父さんは絞り出すような声を出してそう言うと、ワゴンに乗り込んだ。


 「くそっ」
 俺は車のハンドルをどついた。手が震えて、キーが入らへん。
 こんな状態で運転するんは、ある意味自殺行為かも知れん。
 俺は管理人室の呼び鈴を鳴らした。
 「すんません、あとで必ず取りに来るから、暫く車置いといてよろしですか。」
 警察関係者として面通しはしてあるから、管理人は快諾してくれた。




 携帯を取り出すと、メールの着信案内があった。
 「今日は、定期検診の日です。また、1日仕事になるわ。ようけ待たされんのが難儀です。ほな。和葉」
 俺が何しに出掛けたんか十分わかっていながら、あえて触れてへんメッセージ。不安で一杯の筈やのに。それでのうても、初めての出産で、俺ですら結構不安になることもあったのに、腹ん中に命抱えてるあいつなら、尚更のことや。
 俺はぼーっと歩きながら、いつの間にやら河川敷に来とった。土手に寝そべると、川風が吹いてきた。お世辞にも心地よいとは言えん匂いがするけど、この時期はしゃあない。
 ただ晴れてるだけの空を見ながら、俺は和葉になんて言うたらええか考えとった。
 犯人が和美や、いうことだけはしゃあないけど伝えないかんやろ。どうせ、ニュース見たらわかることやしな。動機についても、公になんのは、まぁ、夫婦間の問題で済ませられるやろ。せやけど・・・それ以上のことは、言うべきか、言わざるべきか・・・。
 俺は黙っていられるやろうか。
 和葉はそれだけで納得するやろうか。
 ・・・俺が黙ってても、あいつはそれを見抜くやろな。昔から、そういうとこだけは鋭いから。
 けど、和美の本心を知ったら、和葉は・・・
 俺は無意識に頭に手をやった。
 「できん、どうしたかてそんなんでけへん。」
 和葉のショックは、俺が受けたどころの話やないはずや。昨夜から、今朝にかけてのあいつを思い浮かべると、到底ただで済まんというのだけはわかる。
 「流産・・・。」
 産まれてくる子供もそやけど、和葉のためにもこんなことで流産なんて絶対許せん。
 せやからいうて、黙ってられるか?それは絶望的に無理や。
 「くっ」
 何でや、何でここまでする?和美。
 和葉が何した言うねん。あんなにお前とのこと大事にしとった和葉に、何でここまで酷いことができる?何でそこまで憎めるんや。何で・・・
 「はは、工藤の言う取ったとおりやな。人が人を殺す理由なんて、どう考えてもわからんなぁ・・・。」
 そう呟きながら、俺は無意識に携帯電話を取り出していた。



 TRRRR・・・
 「はい、工藤探偵事務所でございます。」
 耳元でいきなり、工藤のかみさんの声が聞こえてびっくりした。
 俺、あいつの携帯に電話したんちゃうんかったか。
 「あ、あの・・・」
 「あら、服部君?お久しぶり。お元気?今ね、新一ちょっと出掛けてるんだけど。帰ってきたら、かけなおそうか?」
 「あ、あぁ、いや別に特に・・・。」
 「あら、そう? 携帯置いて出掛けるくらいすぐだよ。」
 あ、道理で。
 「蘭ちゃんは、その、まだ生まれへんの?」
 不意に、そんな言葉が出てきた俺に、
 「あら、やだ。うふ。予定日までまだ2週間以上もあるわよ。和葉ちゃんは元気?」
 と、工藤のかみさんは一向に動じひん。
 「お、おおきに。おかげさんで信楽の狸みたいな腹してるわ。」
 「やだぁ、服部君たら。でもね、私の方はもう生まれても問題はないんだ。」
 「へえ?そんなもんなん?」
 「うん、正産期って言って、予定日の3週間前から2週間後までくらいって言うのは、誤差のうちなんですって。多少早くても、そのうちなら、流産の危険とかって、ないのよ。」
 俺は「流産」という言葉に心臓が跳ね上がった。
 「そうなんや・・・。」
 「服部君、父親学級とか無いの?」
 「え?何それ。」
 「お産のあれこれについて、勉強会みたいなことするんだよ。うちは、両親学級っていって、新一も、仕事のない時は一緒に行ってくれたの。」
 「へ〜」
 電話の向こうで、工藤のかみさんが笑う声がした。
 「新一ったらさぁ、もう照れちゃって、『探偵にはどんなことも勉強になるんだ』なんて、言ってねえ。くすっ。お人形で、お風呂入れる練習してたよ。」
 「そら、笑えるなぁ。」
 かなり斬新な情景が頭に浮かんで思わず笑てしもた。
 「あ〜ら、服部君だって明日は我が身じゃない。」
 「うちら、あるんかなぁ、そんなん。ま、ええわ。今日は特に用があったわけちごてん。
ほな、体に気ィ付けて、元気な赤ちゃん産んでや。」
 「あ・・・。うん、ありがとう。和葉ちゃんにもよろしくね。じゃ。」
 和葉にもよろしく・・・同じ言葉がこんなにも温度が違う。
 俺は携帯を切って、また寝そべった。



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