蛤草子


 天竺にほど近い場所にシジラという者がいた。父親は幼くして死に別れていたので、貧しさは常につきまとっていた。折しも飢饉。シジラは母を養うことが出来なくなっていた。それでも何かうまいものを食わせてやりたい。シジラは毎日船を出して釣りに明け暮れた。
 それがここ最近魚を食わせてやっていない。なかなか釣れないのだ。どんなに母は待ちわびているだろう。シジラは母のことを思いながら糸を垂らすのであった。

 釣り竿にも心があったのだろうか。手応えを感じた。引き上げると蛤(はまぐり)をひとつ釣り上げた。がっくりと肩を落とす。腹の足しにもならぬと、海に放り投げた。場所を変えるとそこでも蛤を釣った。「こんなもの」またも海に放り投げた。そしてまた場所を変えるとまたもや蛤を釣った。
「よほど食べられたいのだな」
 シジラは船に積んでおくことにした。

 釣りの続きを再開すると、蛤が気になった。これを餌にしてはどうだろう。ふと見やると、蛤が大きくなっていった。触れぬのに貝の口が割れると中から美しい女が現れた。シジラは鬼婆を見たように腰を抜かした。
「あなたのような方がこのようなみすぼらしい船に乗っていてはいけません。どうか海にお戻り下さい」
 と、シジラはいった。
「わたくしはどこから来たのか、そしてどこへ行くべきなのかも全くわかりません。どうか、わたくしをあなたの家へ連れていって下さい」
「とんでもございません。家はぼろ屋ですし、あなた様をお泊めするわけには参りません。六十を過ぎる母も養っていますのであなたにも大変迷惑をかけることでしょう。なによりも母の世話がおろそかになっては困ります」
「わたくしはどうにでもなれと?」
「いえいえ!」
「わたくしと結婚して下さればいいのです。そうすれば義母の面倒を見ることはごく普通のことですので、あなたも気に病むことはないでしょう」
「け、結婚! ああ、そんな大切なこと、母に聞いてみないと」

 シジラはすぐに船を岸に着けました。
「ここで待っていて下さい。あなたのような美しい女性が来たら母は驚きますから」
 シジラは女をおいてひとり家に帰った。
 事情を話すと母親は「馬鹿者! お前は女の扱いも知らぬのか」と怒鳴りつけ、すぐにここへ呼ぶよう言った。
 シジラは訳の分からぬまま女のところへ引き返す。
「母が連れてきなさいと」
「よかったわ」
 連れてくると、母親は女をたいそう歓迎した。四十にもなる息子に女っ気がないことを嘆いていたのだ。器量のよい娘が来てくれて本当にうれしがった。

 女が望んだのは麻だけだった。麻を紡ぎ、機織りをはじめた。世にもまれな反物が出来るとシジラに売りに行くよう言った。
「いくらぐらいで売ったらいいだろうか」
 と、シジラは尋ねた。
「そうね。三千貫」
 と、当たり前のように答えた。
 シジラはいくら何でもそれは高すぎると思いながらも街へ出た。

 案の定、反物を珍しがるものは大勢いたが、買うものはなかった。
 帰ろうかとしているときだった。ひとりの老人がシジラに声をかけた。
「三千貫でどうかね」
「なんと、ありがたい」
 シジラは荷車を引いて三千貫を持ち帰ってきた。

 帰ると女の姿はなかった。
「かあさん、あの方は?」
「さて、そのうち帰ってくるでしょうよ」
 三千貫は一生裕福に暮らせるだけの金であったが、女は姿を消したままとうとう現れなかった。


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