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 彼女は、旅をしているのだと言った。
「行く当てはあるのか」
 そう尋ねると、曖昧に首を振る。彼女はずっと川をさかのぼってきたのだという。行きたい場所はあるのに、行く当てはないという。住んでいた場所に戻るのはたやすいが、戻ったところで住むことは出来ないという。
 彼女は人魚だと言った。
「そうだな」
 それは見ればわかることではある。彼女の下肢は人間のそれではない。赤みを帯びた魚のそれ。きらめく鱗、透き通ったひれ。光を受けて泡立つように輝く髪。
「名前はあるのか」
 聞く。彼女は人魚だと繰り返した。それは、人間で言うところの人間という種族名だ。私の名前はオボロ、人間ではない。説明してやるが、人魚は首をかしげただけだった。名前という概念が無いのかもしれない。もう一度自分を示してオボロだ、と繰り返す。
<オボロ>
 彼女の声は高いところでさざめいて、波打ち際、砂浜を引いていく波を想像させる。耳に残らない声で、彼女は、あなたはどこにいくのか、と言った。
「私も目的があるわけではない」
<いっしょ>
 彼女ははにかんだ。
 一緒ではない。と、言ってしまってもよかった。私は、ギルドを追放されて、街を出てきた身だ。行く当てもないが、行きたい場所もない。住んでいた街に戻ることも、たやすいことではないだろう。彼女とは違う。
「そうだな。いけるところまで一緒に行こう」
 こくりと頷く彼女を見て、一緒ではない、と口にしなくてよかったと思った。

 それは、口に出して説明するには複雑な感情だ。今おまえが言ったように一目惚れだという、一言で片づけられるような感情だったならば、その方が幸せだったと思う。そうだったならもう少し幸せな結末もあっただろう。いや、そんなことはないのかもしれない。こうやっておまえたちと出会って旅をすることは運命だったと思うのだから、彼女と人生を終えることは、どのみち無かったことだった。

 川をさかのぼる理由は、海にいることが出来なくなったからだといった。彼女が繰り返す言葉を根気強く聞くうちに、それは雨のせいで海が毒に犯されて住めなくなったからだということがわかった。人魚たちはちりぢりになり、それぞれ住む場所を探して住処を離れた。
<うみ>
 彼女は海を探しているのだと、言った。汚染されていない海。川には住めない。
「海、か」
 川は下って海に注ぐものだ。上れば細くなるだけで、決して海にはたどり着かない。そして海水に住む彼女たち人魚は、淡水にはなじまないのだ。海を見つけるなら早くしなくてはならない。彼女の鱗は光沢を失い、一部脱落し始めていた。
 時折海水に似せた塩水をかけてやると、彼女は表情を和らげた、懐かしむように目を細める。普段から柔らかな表情をしていたが、その顔を見るたびに普段のそれが仮面であることを思い知る。魚であれば海水魚を淡水に移せば数時間で死ぬ。人魚であってもそれは同じだった。数時間が数日に、その程度の違いしかない。
「ナミ」
 彼女に頼まれて考えた名前はひどく単純で、大声で由来を言えるほどたいしたものではなかったが、彼女はとても喜んだ。
<おそろい>
 名前を持っていること、だったのだろうか。はにかむ彼女には聞けなかった。
 鱗の脱落がひどかった。初めてあったときの輝きは見る影もない。髪も輝きを失って、老いとは違う、生のかげりだった。
 初めてあったときに、彼女を海に帰していればこうはならなかっただろう。だが私は事実を告げず、彼女について行くことに決めた。

「なんで言わなかったの?」
 毛布にくるまったままヒビキが問う。この好奇心の固まりとも言える理解する力を持つ人間と、同じ部屋になることは多い。そうなれば、夜はこうして昔話や世界について話してやることがほとんどだった。
「そうだな。彼女には行きたい場所があった」
 私にはなかった。私は羨ましくて、ねたましくて、いとおしかった。そして言えなかった。この先に海はないのだと、言ってやることができなかったのだ。どの海も汚れているのだとは言えなかったし、興味もあった、人魚というものに対して。いろんな感情にがんじがらめになって、言うべき事を言えなかったのだ。
「人魚さんは、海にかえれたの?」
「ああ」
 結局。彼女は川の終わりにたどり着く前に死んだ。たどり着く前だったという一点だけは、幸運だったと思う。彼女は希望を信じたままいけたのだから。私は彼女の亡骸を海へと帰すべく、今までのぼってきた川を下った。汚染されていない海はない。ならばせめて生まれた海へかえしてやるべきだと、そんな風に考えた。
「そっか」
 人魚の死骸は海に浮かべると、砂の固まりが崩れるように海水に溶けていった。生まれた海に還ったのだ。
 最期に、たった一粒の涙を残して。
 人魚の流す涙は真珠になるという。彼女の涙が喜びか悲しみかは知らないが、私の手元に一粒残ったそれが、願わくは、喜びの結晶であると願いたい。悲しみが形になって残るなど、彼女がかわいそうだ。
 そしていつか、ナミの生まれた海を元に戻してやる。魔王を倒し、毒の雨がやむように。私の行く当ては相変わらず無いが、しかしやるべき事は見つかった。それは、至極幸せなことだ。ナミのおかげだ。ありがとう。

――053.真珠一粒 




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