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 青々とした平原のど真ん中で。彼の最後は訪れた。ウォーカーは、彼の死など、認めたくなくて、見たくなくて、だから振り返らなかった。

「悪かったな、こんなところまで付き合わせちまって」
 主はすでに自分一人では動けない体だった。高齢というわけではなく、怪我のせいだった。大雨の日、崖の崩落のときに人間をかばって足を駄目にした。魔王だって言うのに、お人好しがすぎるってもんだ。前々からさんざん注意していたのに、主は「面目ねえ」と笑っただけだった。本当にしょうがない奴だ、と思う。けれどあの時、崖の崩落を黙って見ている主など想像できない自分がいる。ひたすらお人好しの、魔王。岩の下敷きになった人間を見て笑う主など、らしくない。
「こっからは、おまえ一人でいけ」
 だから、いつかそんなことを言い出すんじゃないかと、思っていた。主に肩を貸して平原を行く、逃げていく、そのただ中に、言い出すことさえ想像していた。
「おまえの死ぬとこなんざ見ちまったら、寝覚めが悪くなっちまう」
 それはお互い様だ。馬鹿なこと言うくらいなら黙ってろ。
 怒鳴りたいのを押さえて言うと、主は動く腕を振り回して、肩を貸している使い魔を振り払った。足の動かない主はそのまま転んで草むらに沈んだ。追ってウォーカーもかがみ込む。
「おまえ魔王に向かって言う言葉がそれか?」
 主は腕の力だけで仰向けになると、まだ軽口を叩く。肩に刺さっていた矢を力任せに引き抜き草むらに放った。
「使い魔だろ? 俺のいいように使われとけ」
 この男はどこまでこうなのだろう。人の忠告も想いも怒りものらりくらりとかわしていく。そうして自分を貫き通していく。けれど、そんな人間を主に希望したのもまたウォーカー自身だ。主に選ばれると同時に、使い魔も主を選べるのだ。自分より強い主。自分のどの部分を比べても優れているけれど、自分を必要としてくれる人。この男は、それをすべて満たしている。
 あのときも。崩落の時も、人間を助ける主を想像した自分がいるから、主はそれに応えたのだ。主の足を駄目にしたのは他でもないウォーカー自身。ならば、必要とされることに応えなければ自分の価値はない。
 追ってかがみ込んだウォーカーのすぐ目前に矢が刺さる。振り返って舌打ちする。しつこい奴らだ。勇者の姿が草むらからちらほらと見え隠れしている。
 主を守って戦うか、主を抱えて逃げるか、倒れている魔王と追ってきている勇者とを見比べて思案する。この男を、生かさなければならない、自分の存在にかけて。ウォーカーの答えが出るより早く、主の手がウォーカーの足を掴んだ。
「生きろよ、親友」
 気が付くより主の呪文が早かった。掴まれた足には烙印があった。自分を主の使い魔であると証明する、印。それが、主の呪文とともにかき消える。なにかを口にしようとした、罵倒か恨み言か。人間の姿を保てなくなったウォーカーの口はどちらの言葉も発せずに、蝙蝠に戻って空中へと飛び出す。
 主は親指を立てた拳を突き出して笑っていた。
 神官も、魔術師も、そのとき誰一人残っていなかった。使い魔でたった一人残ったウォーカーを蝙蝠の姿へと戻して、魔王は満足そうに笑って。ウォーカーは何もできなかった。主の名前を叫ぶことさえ。

「悲しいのね」
 タルヒに聞かれて、ウォーカーは草むらに寝転がったまま思案する。胸の上には銀製の懐中時計がのっている。放り出さないように、鎖を右手に絡めてしっかり握りしめている。
「そいつはちょっと、違うな」
 主が死んでも涙一つこぼれなかった。烙印を失い使い魔としての能力を失った蝙蝠には蝙蝠としての感情しかなく、涙を流すことなどできるはずもなかった。しかし、今思い返すと涙を流さなかったのは獣だったからではないことに気が付く。
「おれは、今度こそ先生を守る。その機会が与えられることを知っていたんだ」
 銀時計は主の形見。魔を払う力を持つ銀を肌身離さず持っていた、心優しい魔王。その時計を最後の最後に使い魔のポケットにねじ込んだのだ。全く気づかなかったウォーカーに、主はこっそり笑っただろう。
「まったく、しょうがないヤツだ」
 懐中時計に向かってつぶやく。そのつぶやきは亡き主に対してでもあり、今の自分に対してのものでもあるようだった。

――51.墓標 




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