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 雨だれの音が続いている。窓から見える景色は青とも灰色ともつかない色で薄められていて、時折窓を叩く雨音が強くなると、耳がぴくぴくと動いた。濡れた体の毛繕いも終わったが、やはり乾くまでには時間がかかりそうだ。私はクローゼットの上に陣取って、丸くなって窓の外を覗いていた。快適、とはとても言い難い。雨でじめじめしている上、この屋敷はどこもかしこも広すぎる。猫の性分には、あわない。この部屋で一番大きな家具でさえ、天井まで届くことはない。猫には落ち着かない、隙間とは呼べない場所。

「よいしょ、と」
 本来ならかけ声など必要としないくせに、わざと、声を上げて接近を知らせてくる。嫌な人間だと思う。猫の私に気づかせないほどの隠密、それも本人には自覚が無いのだから。天性の盗賊。警戒して顔を上げたときにはもう首根っこを掴まれていた。素早い。
<猫づかみしないでください、というか、どうしてここがわかったんですか>
 扱いに抗議しても、結局にゃーとしか発音できない。トボシならともかく、ヒビキには通じない。彼はクローゼットの上に座り込むと空と同じ色の瞳をぱちくりとさせて、それから気が付いたように大きく笑った。
「へェ。トリル、意外と乾いてるんだねェ」
 ヒビキは自分の膝の上に私の体を置くと、持ってきていたタオルをかぶせてくる。乾いたタオルは気持ちがいいが、ヒビキの膝は湿っぽい。
<あなた、ちゃんと体拭いていないでしょう>
「猫の毛って乾きやすいのかなァ? 撥水しなさそうだけど」
<私はちゃんと身だしなみには気を使っています!>
 かけられたタオルから逃れるべく身をよじるが、造作もない手つきでそれを封じられる。ヒビキの髪はそれでも一応拭いてきたのだろう、湿り気を十分残したまま、そこここよじれてはねていた。
<ヒビキ、ちょっと、乱暴にしないでください。逆さに拭かないで。もう、せっかく毛繕いしたのに>
 これでは毛繕いのやり直しだ。どれだけ訴えても通じないことを悟って、諦めてしたいようにさせることにする、早く終わってくれと祈りながら。あまりの手つきに目が回りそうだ。
「ねェ、トリル。君は、悩むことある?」
 ヒビキの声は相変わらずだ。それこそなんにも悩んでいないような口調。なにを突然言い出すのか、脈絡がない。
「僕はねェ、今、いろいろ考えてるよ」
 タオルがくるりと体に巻き付いて、そのまま抱きすくめられる。背中が下よりも、足が下になっている方が楽なのだが、ヒビキに訴えてもやはり通じない。
「僕はどうすればいいのかなァ」
<私には、あなたがなにを悩んでいるのかわかりませんが>
 にゃーとしか、やはり聞こえなかったのだろう。ヒビキは微笑んで、ほっぺたをくっつけてきた。
「心配してくれてるの? ありがとォ」
 心配などしていない。じたばたしてそう言うつもりだったが、気持ちが変わってトリルはそのまま黙っていた。どうせ言ったところで通じない。だったら無駄に疲れる必要はない、自分に害が無いときに限るが。
「僕はね、モデストと一緒にいられたら、それが一番嬉しいんだよ。それ以上のことは、今のとこ、いらない。でもね、僕は隠し事をしてるんだよ」
 猫に向かって秘密を打ち明ける。それはきっと猫は人間の言葉を理解しないと思っているからに違いない。秘密を口にしながら、秘密を守る。私は、こんなにヒビキの言葉を理解しているのに。そう伝えようとしてヒビキの顔を見上げる。鼻先をくっつけるようにして、水色の瞳をまっすぐに向けてくるヒビキには、けれど独り言の気配は見られなかった。本当はわかっている? 私が見つめると、彼ははぐらかすように少しだけ笑って見せた。
「心配なのは、その隠し事、最後まで隠し通せるかどうかなんだよねェ。隠せないなら、早く言ってしまった方がいいと思うんだけど。言わない方がね、長く一緒にいられると思うんだ」
 そういって、ひそりと耳打ちしてくる。ヒビキの、隠し事。それは、耳を疑うような、けれど真実だと本能的にわかってしまう、言葉。
<それは確かに>
 言わない方が長く一緒にいられるだろうけれど。でしょ?と同意を求めてくるヒビキに、どう答えていいのかわからない。
「君と僕だけの、秘密だよ?」
 そういって、肉球に触れてくる。指切りのつもりなのだろうか。肉球をふにふにともまれて、少しくすぐったい。
「あーあ。早く晴れればいいのにね。そうしたら」
 そうしたら、確かに隠し事をする意味もなくなるだろう。ヒビキ自身の言葉の続きがなんだったのか、しかしそれは大きなタオルによって遮られた。
「おまえ、ちゃんと頭拭けよ。風邪ひくぞ」
 こっちも、ヒビキに負けない足音のなさ。不肖飼い主のトボシだ。持ってきたバスタオルを投げたのだろう、ヒビキは頭を振ってバスタオルを頭から落とす。
「ちゃんと拭いたよォ ていうか、どうしてここがわかったのさ?」
 唇をとがらせて抗議する。トボシは両手を腰にやると、あきれたように大げさに息を吐いて見せた。
「足跡が残ってるぞ」
 指さしたのは床。入り口からクローゼットまで、水浸しの足跡が猫と人の一セットずつ、残っていた。

――46.足跡 




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