あいつにあったら、真っ先に逃げろ。歌うことなんか考えてたら、殺されるぞ。 トボシの忠告はそんなものだった。灰色の髪、金色の瞳、大柄で、武器を持たない、男。名前は、なんと言っていただろう。武器を持たないのは、持つ必要が無いからだ、という。全身から必殺の技を繰り出すことができるのならば、確かに武器など必要ないだろう、とタルヒは頷いた。トボシとどちらが強い?と尋ねれば、もちろん俺の方が強いが、と念を押すように言ってきたが、侮るな、と忠告してくるところをみると、相当、相手を評価しているということなのだろう。 トボシが互角と思える相手がいるなんて。 それはいいことだ、とタルヒは思う。自分の技を競える相手がいることは、幸せなことだ。自分を磨く上で、自分と同じ力量のものがいることは大切だ。ダイヤモンドを磨くにはダイヤモンドを用いるように。 会ってみたい。 そう思う。歌う心が躍る。どんな男なのだろう。武の達人となれば、隙のない男にちがいない。熊のような厳つい大男、抜き身の剣のような張りつめた空気をまとう男。 タルヒは使い魔というものに会ったことがない。もしかするとすれ違う人たちの中に使い魔と呼ばれるものがいたかも知れない。金色の瞳を持つものが。けれどそうと思っていなければ会っていないのと同じ事。できれば話もしてみたい。 酒場は男たちでにぎわっている。この街は旅人が多く訪れる街ではない。街で働く男たちが、ひとときの快楽を求めて集うこの場所は、歌姫が来る日も来ない日もテーブルをひっくり返したような騒ぎだ。自分の歌は果たして男たちの耳に届いているのだろうか。不安にはなるが、そんな騒ぎを楽しんでいる自分がいることを、タルヒは知っている。本音を言えば、日に一度くらいは自分の歌を静かに聴いて欲しいけれど。 ふと、どれくらいの人間が自分の歌を聴いているのか、試してみたくなる。ちょっとしたいたずら心。眠りの歌くらいなら害はないだろうが、いきなり曲を変えるのではいけない。それにもし思った以上に聴いていたら、効果が出すぎて騒ぎになってしまう。思いを巡らせながら、タルヒは自分の心が躍るのを止められない。普段なら、こんなことを思いついても実行しなかっただろう。けれど今はトボシもいない。あの人は、歌を聴く耳は無いくせに、歌っているのはわかるのだから。 眠りの歌を、少しずつ混ぜる。曲も変えないままだから、効果も出るか怪しいものだが。歌いながら店内を見渡す。人々は気ままに飲み、笑い、変化は見られない。 残念。いえ、こんなものよね。 内心苦笑する。ここは酒場だ、歌を聴きに来る場所ではない。 「おい、なんだよ久しぶりだってのに」 「徹夜あがりだからかな。なんだか急に眠気が」 「働き過ぎだろ、おまえ」 「あくびばっかりしてるなよ、飲みが足りないぜ?」 耳に届く会話に歌うままそちらを向く。銀、いや灰色の頭が揺れている。頭一つ高いところにあるそれは、思い出したようにあくびの動作をして、ジョッキを口元に運んでいた。 「今度先生に家庭教師の事、頼んでおいてくれよ」 「あー わかった」 「って、今日言っても無理そうだぜ?」 「おい、ウォーカー、寝るなって」 「うー いかん、だめだ」 ごつ、と堅い音を立てて、灰色の頭がテーブルに突っ伏した。テーブルから笑い声があがる。 そうだ、ウォーカーだ。魔王の使い魔の名前。タルヒはこみ上げてくる感情を押さえつけず、身を任せて笑った。歌いながらだったので声は出せなかったが。トボシの好敵手は蝙蝠のように耳のよい男のようだ。 |
――45.人魚の声 |
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