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「いいから横になっていろ」
 いつもの通り、無関心を装った命令。ソファに座ったディベルスは、それでも一度、本から視線を離して、アリエッタを視界に納めた。表情も態度も素っ気ない、心配の色のかけらもない瞳、優しさのかけらもない口元、干渉を拒むようにひとかけらの動作もない。
 けれど。
 こくり、とアリエッタは頷いた。
 片方の腕で自分の顔を隠して、ディベルスの膝に頭を預けて、ソファに仰向けて、目をつむる。けだるさが口を開くのさえ億劫にする。だけれども、今回ばかりはそれがありがたく思えた。いつもの調子なら必ず言葉を向けて、ディベルスを不機嫌にさせただろうから。
 ディベルスは、優しい。
 そう感じさせないのは、彼がそれ以上に不器用だから。
 伝えたら間違いなく憮然とするだろう。アリエッタは微笑する、心の中で。体はとてもじゃないが、心境を十分に表現できるほど自由にならなかった。
 ここのところ、満足に睡眠をとれていない。体は間違いなく疲れている。頭も睡眠を欲している。なのに、横になっても眠ることができない。妙な胸騒ぎ、不安感。限りなく浅く短い眠りと覚醒を繰り返す。眠っている場合ではないような、せかされるような気持ちになったり、一人でいることがとても不安になったりする。
 なぜだろうかと、思案したところで答えはでない。はなから理由などないのかもしれない。心当たりがないことがはじめはとても不満だったが、今ではそれを不満に思うことさえない。考えるという行為は、とうの昔に脳に拒絶された。
 眠れていないことを、みんなに隠し通せたのは一週間前までだ。それまでも調子が悪いのかと何度か問われたが、なんとかごまかしてきたつもりだった。だがとうとう隠しようがなくなった。ウォーカーと話している最中に倒れてしまったから。
 気がついた時にはソファに横たわっていて、傍らにいたウォーカーは不安と怯えの混じったひどい顔をしていた。
 ひどい顔、とつぶやいたら、ウォーカーはようやく気がついたようで、緊張を解くと、ああひどいクマだ、と勘違いして少し笑ってくれた。あれほどマイペースな男をおびえさせたのだから、自分もよっぽどひどい顔をしていたのだろうと、アリエッタは思う。
 それから、一睡もできなくなった。
 何かしているほうが不安感は薄れる。けれど、希望とは逆に、家事その他一切を禁止された。
「眠れないのか」
 上から降る声に、目を開ける。
 クマができて疲れ切ったひどい顔だ。本当ならディベルスには見せたくない。けれど、どうしても彼の顔が見たくなって、アリエッタは少しだけ腕をずらして視界を広げる。
 どうして、こんな時ばっかりそんな顔をするの。
 本から顔を上げて、こちらを見下ろす金色の瞳は努めて何の感情も映さないようにわずかに細められていたけれど。いつもは視線もあわさないくせに、今は確かにこちらをまっすぐに向いている。
「でも、少し楽」
 眠れていないことは、これだけ近くにいれば隠しようがない。アリエッタは苦笑して、うなずいた。腕の位置を元に戻す。
 答えた言葉は嘘ではない。確かに眠れてはいないけれど、誰かがそばにいて、その温かさを感じていられると、不安が和らぐ。意味不明の焦燥感は消えないけれど。
 ずっとこうしていられれば、いつかは眠れるようになるのかもしれない。
 そう思えるほどに。
「アリエッタ?」
 ディベルスの、声。いつもより感情が色濃く聞こえるのは、目をつむっているせいか、それともこれだけ近くにいるせいか。
 そっと、前髪に指が触れる。ディベルスの指は元が猫のせいか、人間の体温よりも少し温かい。その指が一度びっくりしたように離れ、またそっと触れてくる。
「大丈夫だ。俺が、何とかするから。だから泣くな」
 だからか。
 アリエッタは降る声にうなずいた。
 ディベルスはことの真実に気がついた。だから、自分に向かってまっすぐに言葉を向けるのだ。
 はたして本当に自分が泣いているのか、アリエッタにはわからなかった。泣いているのかもしれないが、その感覚がない。けれども泣いているならこれほどひどい顔はないだろう、そう思った。

――44.優しい人形 




43.通行許可 目次 45.人魚の声


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