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 一面の闇の中、甘い香りが立ちこめていることにふと、気が付いた。首を巡らしあたりを見回す。闇に包まれた視界はどちらを向いても変わることがなかった。
 闇、というよりは、黒。
 どこかの場所が光を失い闇に包まれている、というよりは、触れられない黒いカーテンに包まれている、そんな感覚。真の闇、真の黒。その感覚の違いは口にして説明できるものではなかったが、確かに感じるものだった。今まで自分が存在した世界には無い場所なのだろう。だから、ほら。視線を下げても自分の姿は映らなかった。存在するはずの自分に触れようとしてみる、が、できない。
 それは奇妙な感覚で、見えないから動かしている感覚がないのか、と思うと違う気がする。手だけを勢いよく振ってみても、風を切る感覚がない。手が、ないのだ。手という概念はあるのに、手がない。
 自分は手のない生き物だっただろうか?
 変な疑問だ。自分に手があったか、とは。目を閉じて考えてみる。自分の姿を思い出せない。黒い世界は変わりがないからもしかすると、目もない生き物なのかもしれない。どうだろう、目も、手も、ない生き物。自分の姿。
 ちがうな、と、漠然と思う。少なくとも目はあっただろう。ここは闇だと、黒色だ、と判断したのだから、他の景色も色も見たことがなければ。だから、目はあったはずだ。
 手はどうだろう。無かったかもしれない。掴んだ記憶はない。なにか似たような行為はできた気がするが、掴むというのはできない気がする。けれど、掴むと言うことがどういう事かは知っている。そう、掴まれたのだから。
 あれが掴む、だ。目を閉じたまま考える。その動作を思い出す。自分の体を捕まえた、その行為を。相手には、見るための目も、食べるための口もあって、その辺は自分に似ていたと思う。
――会いたいかね?
 響く、声。頭の中に直接響いたような、けれど耳に伝わる感覚。そうだ、この感覚が耳で聞くということだ。今までとは違う、聴覚。
――ならば、命を捨てる覚悟をすることだ。
 会いたい、と思うと声が答えてきた。
――ここを出れば、己のために命は使えない。覚悟がいるだろう。その肌に烙印を押され、意にそぐわぬ命令にも従わなければならない。一度ここを出れば戻ることはかなわない。それだけの決意があれば、通行を許可しよう。
 何を偉そうに。けれど。と、同時に思う。あの、自分を捕まえた相手に会いたい、と。そして彼ならば、そう彼、だ。男だった。あの男にならば、従ってもよい、そう思う。
――ならばよかろう。己の姿をイメージするがいい。ヴァンゼ。
 己の姿、と言われて思い浮かんだのはその男と釣り合う姿の自分。人間の、自分。どうせならば女がいい。ヴァンゼは思う、せいぜい彼の好みに沿うように。
「ヴァンゼ」
 それは、なんの呪文? 聞き返そうと思ったがうまくできなかった。声帯を震わせることはできても、発音が整わない。こんなこと、したことがないのに。舌で唇をなめる。
「ヴァンゼ、聞こえますか?」
「……はい、魔王様」
 ああそうか。私の名前だ。思い出した。ヴァンゼ。彼の、魔王様の使い魔。
「私の名前はグレンテ=ケイオス。先生と呼んでください」
 彼は、そう言って微笑んだ。グレンテ、私の仕えるべき相手。
「はい、先生」
 赤いものが視界に入る。自分の、髪だ。視線を下げると、白い肌。人間の女の形。うん、悪くない。ヴァンゼは唇に弧を描くよう命令する。彼と同じようにきれいに笑えているだろうか。

――43.通行許可 




42.裏切り 目次 44.優しい人形


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