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 狙いは、わかっている。
 わざと隙を作って見せても攻め込んでこないのが、その証拠。相手は、主の命を狙って機をうかがっているのでは、ない。
 この自分を、欲しているのだ。
 ディベルスは自分を包む黒い服の上から、そっと左腕を押さえる。そこに刻まれるのは、神官の刻印。使い魔である自分の、存在の源とも呼べるものだ。人間の魔王からしか生まれない、神官の能力を持つ使い魔。
 神官は唯一、主の命を左右する能力を持つ。主の、命綱、とも言える。天使や悪魔のような強い体を持たない人間だけが、神官を生むことができる。強い肉体を持たない人間だからこそ、という訳ではないが。結果としては同じ事だ。人間の主だけが、神官の使い魔を生む能力を与えられた。
 ならば。強い肉体を持つ天使や悪魔が神官を欲しないか、といえば答えは否だろう。
 死は、恐れるべきものだ。志半ばならば、なおのこと。神官を手に入れれば、命をもう一つ手に入れるようなものだ。
「何を血迷って現れた」
 背後からの声に足を止める。
「それとも罠でも張っていたつもりか?」
 静かな声に寒気を覚える。震えそうになる体を律するために拳を握る。震えている暇はない、この男を遠ざけなければならない、この街から。
「血迷ったわけでも罠でも、ない」
 ディベルスは振り返らず、はっきりとした口調で、言う。太刀打ちできるよういろいろ準備をしてきたことを罠、というならそうかもしれない。けれど、自分は「交渉をしに」来たのだ。
「交渉?」
 声は、激昂したり、嘲笑したりはしなかった。自分がここに、交渉をしに現れることは、予想済みだったのだろう。こちらも、男が自分の誘いにのって姿を現すことを計算に入れていた。
 月の下、勇者対神官。一対一。
「こちらに下るから、主にはさわるな、とでも?」
 こちらの考えなどお見通し、というつもりか。ディベルスは思う。けれど相手の発言は、こちらを格下に置いた、自分は負けるわけがない、というそれだ。
 振り返り、相手と対面する。顔を合わせるのは初めてだった。霧の街の薄い月光も跳ね返す、銀の髪。青みを帯びる瞳は射抜くような力はない、が、見られるこちらが凍り付きそうな視線を送ってくる。体つきはいくらかほっそりとしているようだが、必要最小限の筋肉を鍛え上げればこんなものだろう。腰には二本の剣をさげている。
 たいした自信家だ。負けるわけがない、とはどういう意味か。戦はやってみなければわからない。相手を見据えて、ディベルスはゆっくりと息を吸い込む。
「それは、できない」
 自分は、主の元を離れる気はない。彼のために、まだ何もしていない。
 それに相手が勇者である以上、その条件が受け入れられないのは明白だ。魔王を討つことが勇者の使命。それを放棄すれば勇者ではなくなる。神官を手に入れる意味もなくなる。
 ディベルスは袖に隠してあった短剣の柄を握りしめた。
「おまえが拒んでも、主の入れ替えはできる」
 勇者は抜刀する。うっすらとそりの入った片刃の剣。
 短剣を握る手がじっとりと汗ばんでくる。やはり、と思う。主の入れ替えを知っていなければ、この場には姿を現さなかっただろう。使い魔の意志とは無関係に、主を変える方法。
 けれど、それを知っているからこそ、こちらもつけいる隙があるというわけだ。
 勇者が踏み込んでくる、銀糸の残像を残して。つきだしてくる剣先までゆっくりと見える。
「主の入れ替えなど、させない」
 先ほどまでと同じだけの距離を保ち、告げる。勇者はさすがに驚いたようだったが、すぐに仕掛けに気が付いたようだった。傷ついた自分の手の甲を見下ろした。
 ディベルスの体には加速の魔術文字が足してある。相手の動きがゆっくりとして見えるのは、こちらの動きが加速されているからだ。踏み込んできた勇者の横へと回り込み、追ってくる二撃目を狙い、剣を握る手をめがけて短剣を振り上げる。切り裂く感覚に自分でも驚いて、斜め後ろに飛び退いて、再び対峙した。
「我々の望みは不干渉、ただ一つだ」
 短剣を構え、告げる。勇者が初めて感情らしいものを表情に表した。怒り? いや……
 勇者の表情はすぐ闇に沈んでわからなくなった。先ほどまでと同じ凍るような視線を向けてくる。
「魔王を放っておいたら世界は滅びる」
「それは我々の知るところではない」
 正確には、自分の、だ。主は、あの人はそうではないだろう。薄々感づいている。ディベルスは思う。あの人は魔王でありながら、魔王として振る舞いながら、もう一つ別の目的を持っている。
 ディベルスは迷う。主の考えは、まだ誰にも告げられていない。自分の考えは、あっている? まちがっている? この行為は、主に対する裏切りに、なりはしないのか、と。
「交渉しにきた、といったな」
 双方の沈黙を破ったのは、勇者の静かな声だった。まだ二本の剣は構えられたままだったが。思ったより短剣は深く刺さったらしい、赤いしずくが地面へと落ちていく。
「ああ」
「条件はなんだ」
 まだ互角、とは思っていないだろう。けれど、ディベルスの力を評価したのは確かだった。聞く気になった。ディベルスは乾いた唇をなめてしめらせる。
「主が目的を達したら、そちらに下っても、いい」
 ゆっくりと、言葉を絞り出す。
「そちらは一度この街から退け」
 自分の言葉が耳に伝う。聞こえてくる声はまるで他人のもののようで、自分の裏切りを突きつけられているような気分だった。けれど。ディベルスは唇を引き結ぶ。例え裏切りでも、勇者をこの街から遠ざけることは、第一義、だ。それは間違いない。
「平等とは思えないが?」
「飲めない、とは言わせない」
 握っていたナイフを、左の腕へと添える。左腕の、烙印へと。烙印が破壊され、意味をなさなくなれば、自分は神官ではなくなるだろう。元の、黒猫へと、戻る。戦力ダウンは否めないが、分けられた魂は主へと戻り、その分主は力を得ることになる。それに勇者にもう一つの命を与えるという、最悪の状態は避けられる。
 先生を守ることはできなくなるけれど。
 ディベルスは自身の出した結論に頷く。
 自分の精一杯は、きっと主を裏切る行為には、ならない。ならない、と信じる。
 互いに剣を構えたまま、時が過ぎる。一分か、二分か。
「いいだろう」
 勇者は剣を収めた。先ほどまでは凍てつくような視線を向けていた瞳が、柔らかく細められている。
「次も同じ手が通じると思わないことだ」
 踵を返す。
 勇者は去った。脅威とともに。

――36.しるし 




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