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 それは、悲鳴だった。

「どうしました?」
 屋敷の主の声は、のんびりしている。彼には驚くという事がないのだろうか、と恨めしく思えるほど、いつもと変わらない口調。のんびりしているのは、広間に姿を現すまでの時間もそうだ。悲鳴が上がってから一番後に、登場。いや、驚く必要がない、と肌で感じているのだろう。彼は人間だが、我々の主でもあるのだから。それくらいはやって当然、やってもらわないと困る。
「先生……」
 あわてる魔王を見ずにすんでよかった、と振り返って神官ディベルスは、そこでまた口をつぐんだ。というよりはあきっぱなしになった。土で汚れた軍手姿の主に、またか、と思う。このギャップはなんだろうか。確かにこの人は我々の主、だけれども、たまに悩みの泥沼にはまりそうになる。我々は、いったい何をするためにここにいるのだろう、と。決して人間と同じように暮らし、草むしりやらお祈りの上げ方やらを学ぶためではない、はずだ。烙印を隠した左袖にメイドの少女、アリエッタがしがみついている。悲鳴の主。まあ仕方がない。ため息もつけずに思う。衣服を掴まれていることは形が崩れないか大いに心配だが、彼女はただの人間だ。生け贄の祭壇や、人語を話す魔獣を見て悲鳴を上げるのは仕方がない。
 もう一人、魔術師ヴァンゼはソファの前にかがみ込んでいた。しげしげとソファの上のものを観察している。アリエッタが悲鳴を上げた原因。前に降りてくる赤い髪を片手で押さえて、そのまま声を上げる。
「ねえ、これって」
 遠慮無く恐れもなくソファの上のものを掴み上げる。灰色の。
「おや、ウォーカー」
 どうして蝙蝠に?とソファに近寄る主の声に、やっぱり、とヴァンゼが嬉しそうに言葉を漏らす。灰色の小さな蝙蝠は、体の所々を真っ赤に染めている。口から血を吐いたような赤が印象的だ。蝙蝠の姿が見えたのだろう、アリエッタが息をのむような小さな悲鳴をあげる。
 ディベルスは眉根をよせた。
「ウォーカーの烙印初めて見た」
 ヴァンゼはしげしげと蝙蝠の翼を広げて腹の辺りを観察している。魔術師という役割のせいだろう、魔術文字には特別な興味を示す。勉強嫌いの彼女も、魔術書だけは別、というわけだった。ウォーカーの使い魔たる烙印は腹一面に刻み込まれている。何の役割を持つ烙印なのか、主は教えてくれたことはない。知る必要なない、というよりは説明することを忘れているだけだろうが、だからウォーカーの役割は今のところ格闘家、と解釈されている。
 ヴァンゼに持ち上げられくたりとしている蝙蝠を、主がそっと取り上げる。

 床には順に、靴、ズボン、上着、シャツ、とソファへつながって落ちている。ソファの上には革製のチョーカー。ウォーカーがつけていたものだ。そしてソファには灰色の小さな蝙蝠。
 状況から見ても、その蝙蝠はウォーカーに間違いない。
 アリエッタは血まみれの蝙蝠がソファで死んでいるのを見て、悲鳴を上げたのだろう。ディベルスは想像する。まだこの屋敷にきて日の浅い彼女の反応は、正常なものなのだろう。耳をつんざくような悲鳴には、さすがに肝をつぶされたが。
 駆けつけたのはディベルスが最初だった。ヴァンゼは寝ているところを起こされたようで、寝癖のままの頭で不機嫌そうだったが、ソファの様子を見て目が覚めたようだった。

 主が軍手の汚れていないところでウォーカーの口元を拭いてやっている。まだそれほど時間がたっていないのか、赤色は落ちた、けれど代わりに土臭さが移っただろう。まあウォーカーが気にすることはないだろうが。
「グレンテさん」
 ディベルスの陰で、アリエッタがおびえた声を出す。主がゆったりと笑んで、ディベルスがあきれたため息をついて、ヴァンゼがきょとりと驚いて瞬きをして、言った。
「蝙蝠もよく見るとかわいいですよ?」
「……先生、そうじゃないと思いますが」
「馬鹿ねアリエッタ。死んじゃいないわよ」
「……え?」
 主が小さな蝙蝠をアリエッタに差し出す。少女は顔を背けて嫌々受け取って、最初は目をつむっていたが、気が付いたようだ。うっすらと目を開ける。
「ね、かわいいでしょう?」
 そうじゃない。蝙蝠がちゃんと生きているということに、だ。

「人の姿から獣の姿に戻れる、そういう能力なんですよ、使い魔の」
 蝙蝠はアリエッタのエプロンのポケットで安眠中だ。赤色を落として少し土臭い蝙蝠は、アリエッタが恐れる対象にはならなかったようだ。寝かせる場所を探して、自分のポケットに入れるあたり、気に入った、ともとれる。ウォーカーが目を覚ましたときにはさぞ驚くに違いない。だいたい逆さにつり下がって寝ない蝙蝠など、蝙蝠と呼べるものか、ディベルスは黙ったまま顔をしかめる。
「人型と獣を行ったり来たりできるのはウォーカーだけですが」
「じゃあ、血まみれだったのは」
「あれは血じゃありませんよ。あなた昨日買ってきたでしょう、マルゴルの実」
 血の色によく似たこぶし大の木の実のことだ。確かに昨日紙袋いっぱいに買ってきていた。味は濃厚で甘く、香りも強い。果汁はまるで血そのもので、そのせいで生け贄の祭壇に供えられることも多い果物だ。
「使い魔の好物なんです」
 マルゴルの甘い香りは使い魔を酔わせる。あの高揚感を味わうと、やめられなくなるとも言う。人間で言うところのアルコールのようなものだ。麻薬に近い。
「ま、マルゴルのにおいにつられて寝ぼけて食べて、気持ちよくなって人型をといて、ソファで寝てたってとこね」
 腕組みしたヴァンゼが素っ気なく言う。
 マルゴルの果汁が血に見えたということだ。なんと迷惑な。
 アリエッタはことさら目を見開いて、ポケットのウォーカーを見下ろしている。
 ディベルスは眉間によったしわを指でもみほぐした。

――32.うれた果実 




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