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 さしのべられた手に、自分からも手を伸ばす。早くしないと、もう、あまり長くは持たない。全身を支えるのは両の腕のみ。足は大地を踏んではいない。つま先が蹴る岩肌から、石がはがれ落ちて奈落の底へと消えていく。二の腕の筋肉は悲鳴を上げている、それ以上に、岩を掴んでいる手が、指が、限界を訴えて震えている。
 上では何かを叫んでいる。しかし自分の耳には届かない。自分を励ましているのか、それとも応援を呼んでいるのかもしれない。上の世界の事はわからない。ただ、叫んでいる、それだけはわかる。
 もう、少し。
 気力を振り絞って体を引き上げる。左腕の筋肉が引きつる、はじけるような小さな音は、筋繊維を傷つけたのかもしれないが、かまうものか。
 ……もう…すこし。
 汗が目に入る。きつくつぶって追い出そうとするが、うまくいかない。片目で差し出される手を睨む。その手も震えている。意を決すると手を伸ばす。
 掴んだ。
 助かった、という安堵感。まだ完全に救われたというわけではないが、もう大丈夫だ、という思いが一瞬にして全身に行き渡る。
 が。
 その感触に、はっと目を見開く。
 ぼろり、と。
 砂の固まりを崩すように。
 掴んだはずの手が崩れる。まるで錆びてもろくなった金属の感触。反射的に強く握りしめた手の中で、もろく崩れていく手が、腕だったものが、こぼれて上へと軌跡を描く。
 上?
 否。自分が下へと落ちているのだ。
 落下。谷底へと。
 暗闇に吸い込まれていく感覚に、何も無い手を強く握りしめていた。

「……でさァ ある意味それって死んだも同然じゃ……うわ、ひどい顔」
 どうしたのさ、急に。と声とともに、不意に視界を青で覆われて、モデストは一度、瞬きをする。視点があう、水色はヒビキの髪の色だ。自分を認めたのを確認してか、ヒビキは少し顔を離す。
「具合悪いなら少し休憩しようよ。こんなところで倒れたら危ないよ?」
 ほら、ずいぶんと湿度が高いから。などとヒビキは珍しくまじめな顔をして言ってきた。それから押し黙ったままのモデストに、立ったまま寝てた?などと冗談をつなげて。ヒビキにそんな顔をさせるなど、よっぽどひどい顔をしているのだろうか、額の汗をぬぐう。触れた肌は自分のものながら、驚くほど冷え切っていた。
 寝ていた、夢か? モデストは思う。恐ろしく現実味を帯びた夢、だった。差しのばされた手を握ったはずの右手を見る。無意識のうちに握りしめると、ぼろりと崩れた感覚がよみがえった。モデストはわずかに眉をひそめる。
「先は長いんだし」
 旅に慣れている、という面では自分より少年の方が上、とモデストも承知している。それ以上に少年の機動力は無限に思えた。すっかり自分の無愛想にも慣れた様子で話しかけるヒビキに、モデストはかぶりを振ってみせる。
「うん、なら……いいけど」
 言葉とは裏腹に、ちっともよくなさそうな表情で、ヒビキは黙り込む。心配で水色の瞳が揺れているのが見える。大丈夫だ、とすれ違いざまに肩をたたいて、モデストは前へと進む。正直気分は最悪だった。短く言葉を吐くだけで、むかむかと胸が悪くなる。口の中に苦いものが広がる。
「ねェ 休憩しようよ。僕、疲れたよォ」
 後ろから、声。振り返ると、声を張り上げる元気のあるヒビキは、先ほどの場所でしゃがみ込んでいた。
「まだあと半分以上も歩くんだよォ? 疲れたよ足が痛いよおなかが減ったよ休憩しようよォ」
 ぺたりと地面に尻をつけて、歩く気なし、をアピールしている。ちらりと上目遣いになるのは、こちらの様子をうかがっているのだろう。こういうとき空色の瞳は不利だな、とモデストは無表情に思う。瞳の動きがよくわかる。
「ここで?」
 眉をしかめる。できるならば口を開く労働は避けたい。周りを見回した。立ったまま変な夢を見たのは、この場所のせいだ。
 切り立った岩山の、細い断崖絶壁ルート。
 山を越えるならここが一番近道、と案内されるままに足を踏み入れたのが間違いだった。一歩足補踏み外せば奈落の底へと真っ逆さまだ。一時間ほど歩いてから、前を歩くヒビキがおもしろがって石を落としてみたが、落ちた音はしなかった。
 同じように周りを見回して、ヒビキが指を指す。
「じゃあ、あそこ」
 道をこのまま行くと、100メートルも行かないうちに少し幅の広いところに出る。岩陰になっていて日も当たらない。絶好の休憩ポイントといえる。
 最初からあの場所に目をつけていたな。
 モデストは顔には出さずため息をつく。ヒビキに視線を戻すと、伺うような視線があわてて逃げた。
 今度は深く吸った息を、ため息として吐き出す。
「わかった」
 これ以上意地を張って、ヒビキに気を遣わせるのも申し訳ない。それにこれ以上放っておくと、目的と行動がすり替わって、ヒビキがいらないだだをこねかねない。
「あそこで30分、休憩しよう」
 ほら、と手を差し出す。座り込むヒビキに向かって。
「やったァ」
 迷わず自分の手を掴む、ヒビキの少し小さな手。確かな手応え、引き上げるとぴょこりとヒビキが立ち上がる。だから好き、などとじゃれて抱きついてくる少年を好きなようにさせて、掴んだままの手をしっかりと握りしめてみる。
 やはりあれは夢、か。
 現実に存在する少年の手は、どんなに強く握ったところで崩れることは無かった。確かな熱を持って、逆に自分の手を握りかえしてくる。

 夢でさえ安息が無いのなら、
 例え針のむしろだとしても、現を生きるしかない。

「……そしたらさァ 次に会った人を仲間にするって言うのはどう?」

 半ば先行くヒビキに手を引かれながら休憩地点へと向かう、少年のにぎやかな声を聞きながら。モデストは苦いものを飲み込んで、笑った。

――27.旅の仲間 




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