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「あらあ、悩み多き魔王、ってところねえ」
 目の前の妖精は、青いマニキュアを施した指をあごに触れさせて、困ったように首をかしげる。まるでかわいらしい乙女の仕草なのに、外見は男そのものだ。確かに線は細いかも知れない。けれど、声も背も肩幅もマニキュアを施した指もその手も、全く男のもの。グレンテは少し笑った。妖精には苦笑に見えたかもしれないと思い、すぐに笑みを納める。いや結局納めきれず、口の端に苦いものだけが残った。やっぱり自分は苦笑していたのだ、と知って、一度顔を伏せることで、表情をリセットする。
「みんなには内緒にしておいてくださいね」
 目の前に置かれるカップに礼を言いながら、若き魔王は妖精を見直す。視界に映った妖精は相変わらずあごに指を触れさせていたが、困ったような様子は消えていた。少し驚いたような、それからくすりと笑みをもらす。脱力するようにして、手を下ろした。
「もちろんよお。他でもないグレンテの頼みだもの」
 向かいの床に腰を下ろす。相変わらず世界時計の前だ。グレンテは踊り場から階段を一つ上がったところに腰を下ろしている。オウビリアスは、踊り場に。妖精と話をするときはいつもここ、この階段。
 オウビリアスの言葉に、グレンテは少しあごを引くようにしてうなずくと、ありがとう、と声に出して礼を言う。
「私は」
 言って、グレンテは視線を落とす、手元のティカップへと。緩く湯気の立つそれに、もしかしたら自分の表情が映っているのを期待したのかも知れない。どんな顔をして、告げようとしているのか。結局湯気ばかりで何が映っているのか判然としなかった。顔を上げると、オウビリアスが彼のカップへと視線を落としていた。つられたのだろう。彼のカップには何が映るのだろうか。彼のティカップの水面には、きっと何かが映っている、とグレンテは疑わなかった。
 息を吐く。
「私は。いつか、あの子たちを犠牲にするでしょう。自分が望む望まないにかかわらず」
 言うと、オウビリアスが顔を上げた。
「いや、きっと望んであの子たちを犠牲にする。そんな気がする」
 妖精の表情を見て、言い直す。彼の表情はただこちらを見ているだけなのに、瞳だけは覗き込むように、グレンテの心を映すように静かな光をたたえていた。ティカップの水面よりもずっと、彼の瞳の方が自分を映している、とグレンテは目を伏せて少し笑う。
「きっと私がしていることは、裏切りだと、思います。けれども私はせっかく与えられたチャンスを無駄にしたくはない。」
 私は、悪い魔王です。と、小さく付け加える言葉。自分の使い魔たちを、失いたくはなかった。自分の命を分けたという以上の、愛情がある。あるいは依存、執着、そんなものなのかも知れない。なんであれ、彼らを失えば自分はこの先魔王としてやっていくことはできないだろう。けれど、とグレンテは思う。彼らと自分とは違う。彼らは生まれたときから魔王の使い魔であり、自分は生まれたときから人間だ。魔王となり、魔王の力を行使できるようになっても、意識の差は歴然として存在する。
 視線を落としたままでいると、オウビリアスに覗き込まれた。彼は少し背を丸めて、首を傾けている。視線が合うと、ぱちくりと瞬きしたが。姿勢を戻した。
「なあに言ってるのよう。魔王は悪いに決まってじゃない。そして悪ければ悪いほど、それがいい魔王なのよ」
 オウビリアスは笑った。立てた膝の、その上に肘をついて指を組み合わせて、その上にちょこんとあごを乗せて。決して軽んじたり、小馬鹿にしたり、そういう笑みではない。
「あなたのコなら、あなたのしようとすること、ちゃんとわかってくれるわ。あなたがいい魔王でも悪い魔王でも、最後までつきあってくれるわよお」
 その笑みに名前を付けるなら、慈愛、だろうか。無邪気、のようにも見える。けれどこの妖精は、無邪気に笑えるほど無責任でもなければ、強くもないのだと、最近わかってきた。
「英雄になろうと思わなければ、自分が思うよりね、たくさんのことができるものよ。守るものがあって、やりたいことがあって、そうしたら一人よりたくさんの力が備わるものだから」
 オウビリアスは一度笑みを納めかけると、グレンテにじっと見つめられていることに気がついて、くすぐったそうに笑った。照れ隠しのようで、ああおいしい、などとカップに口を付ける。
 そうか。グレンテはティカップを見下ろした。カップはとうに冷えて、湯気は跡形もない。
英雄にふさわしいかどうかは、何も知らない民衆が決めること。自分はただの民ではない。まして魔王という立場なのだし、自分がしたいことを非難されるなど、おそれることではない。
 やれるところまでやればよいのだ。
 見下ろした水面にはぼんやりと自分の顔が映っていた。滲んだ輪郭でもはっきりとわかるほど、まっすぐで強いまなざしを持った人間が、こちらを見返している。
 グレンテはそっと手を伸ばすと、カップを支えているオウビリアスの手を片方とった。オウビリアスの問うような視線には気がつかないふりをして、その白い手の甲へと口づける。
「ありがとう」
 お礼はちゅーで。妖精の口癖だ。オウビリアスは驚いたように目を見開いたが、自分の手と若き魔王を見比べて、小さく吹き出した。
「どういたしまして」

――11.英雄 




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