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 真の闇。
 目を開いても何も見えない。目を閉じても何も変わらない。耳鳴りがするほどの静寂に包まれた空洞。大きな洞窟だ、何階層にもなった、巨大な迷路。
「いつまで、こうしていられるかしら」
 洞窟は、かつては魔王のすみかだったかも知れない。世界を手中に収めるための、魔王の拠点。はたまた魔界へと通じる通路か。何にせよ、今は静かなものだ。生き物の気配もほとんどない。
「こうやってあなたと一緒に眠るのは、久しぶり」
 女はつぶやく。マゼンタ色の、長い髪、金色の、瞳。白い肌。どの色も今は闇に沈んで、声だけが広い空洞にどこまでも広がる。
<まあ、長くはないな>
 返る声は、低くうなるような、息を吐くときのようなもの。人間のものではない、大型の動物の咆吼のような。しかし声の大きさと低さから想像する動物の大きさは、熊やライオンの比ではない。
<だが、いつまでも一緒だ>
 咆吼は、女の感覚で言葉に変換される。女は小さく笑った。
「そうね、アァル」
 その懐に抱かれ、うっとりと目を閉じて、女はアァルと呼んだ生き物を撫でる。大きな鱗はひんやりとしていて、でもそれがいつものことなので、彼が死にかけているとは信じられなかった。
<ヴァンゼ。私は死ぬよ>
 自分の考えを読み取ったかのように、咆吼。その気になれば、声など使わなくても二人は意志を疎通できる。わかってるわ、とヴァンゼは目を開けると、相手の顔を見る。自分を抱く、竜の顔を。暗闇の中でも、アァルがどんな格好をしているのか、自分を見ているのか、わかるのだ。アァルも、ヴァンゼを見つめている。
<死ぬけれど、それが別れと言うわけではない>
 ゆったりとした笑いの波動。自分でも確かに感じている竜の死を、表面だけでも拒もうとしているヴァンゼを、慰めてくれているのだ。竜にしてみれば短いかも知れないが、ヴァンゼとってみれば長いつきあいだ。アァルの感情の波動は、伝わってくる。
<ヴァンゼの中に、私は生きる。使い古された言葉だが、長く生きていく間にそれは真実だということを知った。今までの死を私は受け入れてきたし、私の死を受け入れてくれる誰かが必要だ>
 その声は咆吼というより、吐息のように聞こえた。ヴァンゼは目を閉じて、うなずく。
<ヴァンゼ>
 なあに? 心の中で返事をする。耳はアァルの声だけをとらえている。自分が音を立てれば、アァルの最後の言葉を聞き逃してしまうかもしれない。
<同族のよしみで、頼みがある>
 自分の考えを感じたのだろう、竜の声に笑いの波動。かき消えるものか、と竜は思った。伝えるべきことは、確実に伝わるだろう、と。
「なによ、鱗仲間ってこと?」
 アァルの思考に今度はヴァンゼが笑う。確かに、この竜の最後の言葉を、自分が聞き漏らすはずがない。
<そうだ。私とヴァンゼ。ヴァンゼにだからこそ、頼む>
 そこから先は、心から心へと直接伝えられた。一瞬驚いたように目を見開いたヴァンゼが、ゆるりとうなずく。
「いいわ。引き受けてあげる」
<それからもうひとつ。私の最後まで、一緒にいてくれないか>
 竜の、声。初めてその声が揺らいで聞こえた。長い時間を一緒に過ごしてきて、一度だってそんなことはなかった。お互いの心は通じているから、不安に揺れる必要など無い。訪ねることに不安を覚えることはないのだ。アァルの、自分に強要する強い声は聞いたことがあっても、本心から尋ねる声など聞いたことが無かった。そう、アァルは初めて自分に尋ねているのだ。ヴァンゼは立ち上がると衣服の土埃をはたき落とした。右手で竜の腹に触れながら、場所を移動する。
「ばかね」
 たどり着いた先は、竜の頭。手を伸ばすとその首を抱くように、体をよせる。
「アァルが出て行けって言ったって、一緒にいてあげるわよ」
 一週間でも、一ヶ月でも。
「何か文句でも?」
 挑むような視線を受けて、竜は笑った。
<いや、結構>
 そして、持ち上げていた首を地につける。ヴァンゼも寄り添うまま、腰を下ろした。
<ありがとう>
 竜は目を閉じる。真の闇の中、ヴァンゼにはわかった。彼女も目を閉じる。

 老いたドラゴンが息を引き取ったのは、それから3日後のことだった。

「さて、これからが大変よね」
 竜の死を看取って、すでに一月がたった。行きは竜に乗ってひとっ飛びだったが、帰りは歩きだ。荷物も増えた。
 一抱えもありそうな大きな袋を、ヴァンゼはそっと撫でた。
「長生きしなくちゃね」
 竜は長生きだから。ヴァンゼは大きく伸びをすると、太陽に目を細めた。

――9.竜の眠り 




8.滲んだインク 目次 10.夢


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