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 魂の一部と引き替えに、心の安寧を与えよう。
 世を憂い傷つく、優しき心に力を与えよう。

「但し、ちょっとした制約をつけさせてもらうけれど」
 声に出す。間違いない、自分の声。しかし記憶の声は自分のものよりいくらか高い、子供のような、しかし狡猾さを含んだ声音で、告げてきた。姿は見なかった。もしかすると自分の夢の中の出来事だったのかも知れない。そんな申し出は自分の妄想で、自分には相変わらず何の力もないのかも知れない。
 けれど。
「どうされました?」
 教会で。色鮮やかなステンドグラス越しに日の光を浴びて。
 司祭の声に顔を上げる。司祭は柔らかな笑みを浮かべて、迷える子羊に手をさしのべている。そう、自分に、だ。
「いえ、神の声でも聞こえたのかと」
 男も笑う、柔らかく。そう答えたのは、半分は本音だ。が、半分は違う。それは、
「どうも、錯覚のようですが」
 拒絶だ。
 司祭は笑みを深くした。
「神は、自らを信じ頼るものを見捨てたりはいたしませんよ。祈りが通じればまた、神の声を聞くこともあるでしょう」
「そう、ですね」
「迷いがあるならば、祈りなさい。祈りが神に届くとき、救いは訪れるでしょう」
 そういって、ホーリーシンボルをきる。男も目を閉じて祈る。
 けれど、神の救いを待っている時間はない。
 目を開けると、司祭は小さく会釈して去っていった。

 あの言葉は誰のものだろう。子供のような声。もしかすると女だったのかも知れない。しかし姿は見なかった。天使だったかもしれない、司祭の言うとおり、神の声を伝えに。けれど。
 男は笑う。こんなことを本気で考えている自分が、ふと可笑しくなった。しかし、間違いない。自分は声を聞いて、力を得ている。
「制約、か」
 告げられなかった制約の内容が、頭の中に広がる。どれだけの力を得たのか。してよいこと、しなくてはならないこと、してはいけないこと。なるほど、自分のやりたいことと、あの声の主のさせたいことは、まるきし違うともいえない。

 世界にはいくつも種が蒔かれているのだろう。そのうちのいくつかが芽を出し、そのうちのまたいくつかに実がなる。そう考えれば、自分がしようとしていることもその芽の一つなのだと考えれば、自分がもし失敗しても、必ず世界は救われるはずだ。

「希望の光か、はたまた闇への旅路か。どちらにしても、もう戻ることはできそうにないですけど」
 制約。
 ひとつ。混沌の名を持つこと。グレンテ=ケイオス。それが今から自分の名前。
 ひとつ。戦いに備えること。身を守るべき駒を用意し、しかるべき場所に待機すべし。
 ひとつ。肉体が滅びた後は、残りの魂を差し出すこと。
 グレンテは笑う、柔らかく。これは呪いだ。だけれど、呪いが必ず自分の足を引っ張るとは限らない。
 長いすに置きっぱなしにしてあった本に手を伸ばす。昨日までは一字たりとも読めなかった本が、今日はまるで絵本を読むようにたやすく理解できる。他にも変化はあるだろう、それは追々気がついて行けばいい。まずは自分の手足となるものを作らなければならない。黒い表紙を撫でる。方法は、この本に書いてある。
 グレンテ=ケイオスは踵を返した。教会を出る。
 今日から魔王だ。

――5.呪い 




4.霧深い都市 目次 6.切れない絆


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