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 朝靄のかかる中、街の奥まったところにある家の扉をノックする音が響く。そしてノックの音を響かせた少女は、応対を待たずに家の中へと入り込んだ。

 静まりかえった家の中。足音を忍ばせてキッチンへと向かう。決して屋敷と言うほど大きな家ではない。しかしちょっとした宿並みに大きな二階建ての建物は、決して庶民のすむ大きさではなかった。思わず買い込んでしまった食料の詰まった紙袋を抱えて、少女は背中で扉を押してキッチンに入り込む。
「おかえりなさい、アリエッタ」
 忍ぶようにして家に入り込んだ少女は、死角となっていた背後から声をかけられたことにびくりと肩をふるわせた。ここの家の住人はもれなく朝に弱い。早朝から目を覚ましている者などいないと信じて、眠りを妨げないように音を殺しての帰宅だったのに。
「ただいまもどりました、先生」
 あわてて後ろを振り返り挨拶すると、声をかけてきた男は小さく笑って床に落ちたリンゴを拾った。先ほど驚いた拍子に紙袋から逃げ出したらしい。
「こんな朝早くから店が開いているんですね。いつもありがとう」
「店はまだですけど朝市がたっているので。あ、もう、先生、私拾いますから」
この家の主にリンゴを拾わせて、と少女があわてていると、男の方が別段気にした様子もなく手を振ってくる。リンゴを受け取ろうと手を伸ばせば、傾いた紙袋からリンゴやらクルミやらがぼとぼとと落下していった。
「あ、あの、起こしちゃいました、か」
 二人して床に散らばった物を拾っていると、アリエッタが上目遣いに問いかける。先生と呼ばれた男は少女の顔を見て一度瞬きしたが、ああ、と声を発した。少女の言っている意味がようやくわかったのだろう。最後に転がったグレープフルーツを拾って、男は笑みを浮かべた。一度廊下の奥へと視線を向けてみせる。
「いや。うん、まだ起きてました。私は水をもらいに抜けてきましたけど」
 あっけらかんと。広げたエプロンでグレープフルーツを受け取って、今度は少女の方がきょとんとした表情になる。
「まだ?」
「はい」
 深々と同意を示してうなずいてみせると、少女の表情がだんだんと変化していく。理解とともに、眉がしかめられていく。
「まだ、トランプゲームしてたんですか?」
「ええ。ヴァンゼとウォーカーがお互い最下位を譲らなくて。ほら、二人とも負けず嫌いでしょう。きちんと白黒つけるまで、ってきかないんですよ」
 まるきし他人事の口調で男は言う。なにかにがっかりした様子満面の少女に別段気にした様子も見せずに立ち上がって。
「ディベルスも手加減して一回くらい勝ちを譲ってあげると決着つくと思うんですけどね。あの子もなかなか器用じゃないから」
「いろいろいろんな意味で間違っている気がしますけど」
 アリエッタは主の前で失礼だとは思いつつも、大きくため息をつかずにはいられなかった。
 目の前にいる男。二十代半ばほどに見えるこの家の主は、実は世界で魔王と呼ばれる存在だ。グレンテ=ケイオス。外見は濃い茶色の髪と同じ色の瞳をした人間そのものである。日向のにおいとほんわかとゆるんだ空気を持つこの男は、はっきりと言ってしまうと、魔王の風格などさっぱり持っていない。もし街中で魔王だと公言して回っても誰も信じたりしないだろう。
 周りにいる者たちもとてもじゃないが「魔王様の側近」という意識が欠落していて、悪事を働くわけでもなく、世界征服を目指すこともなく、することといえばご飯を食べて寝て遊んで、人間のすることと大差ない。アリエッタがメイドとしてこの家にきたときも、「三羽烏よりは四天王の方がかっこいい」とか言い出す始末で、ただのメイドを側近に据えてしまった。
「アリエッタ」
 何となくしゃがんだままになっていた少女を心配したのか、同じようにかがんでグレンテが声をかけてくる。
「あ、はい。なんでしょう」
 あわてて声を出したせいで裏返った返事に、グレンテはまた少し笑ってから立ち上がった。
「こうなったらみんなで朝ご飯にしましょう。あの二人もそれなら納得してゲームを終了してくれるでしょうし。手伝いますよ。何からしましょうか」
「あ、だめです。お食事は私がやりますから。先生は皆さんとゲームでも」
「いいんですよ。あなたが来る前は私がやっていたんですし。早くしないと日が昇ったらディベルスとヴァンゼはともかくウォーカーは寝てしまいますよ」
「じゃあ急いで作りますから。これはメイドの仕事……ちょっとやめてください、先生ってばー」

 霧深い都市メデロウス、明け方に響いた少女の声は、街の誰を起こすことも、四天王のゲームをやめさせることも、魔王グレンテの料理を止めることも、できなかった。

――4.霧深い都市 




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