何度も君を(3)
高橋春樹は、覚えている。愛し愛され平凡に笑いあって暮らした日々を。
だから、何もしない。
完結している。満足できる。あの日々の、記憶だけで。
それだけで。
それだけが、高橋春樹の全部。


「おーおーおーおーおー!」
部屋に入った途端になんだか間抜けな声を出た人形はそのまま探索に入る。
「おーおーおーおーおー!」
一つのドアを開けるたびに声を上げやがてリビングのソファでそれを眺めていた和彦の元へやってくると宣言した。
「キッチンとは呼ばない!」
「は?」
意味が分からない。
「だから、こう、キッチンとかリビングとかなんかそうゆうカタカナで呼ぶとこのかっこよさに負けたような気がする!」
「……へえ」
和彦が異議を唱えないに気を良くしたのか指差しつきで力説を続ける。
「だから、台所で、居間で、風呂ね!」
「……ベッドルームは?」
「寝室!……でもまだ下げたりないような、あー寝るところ?」
腕組みをして首を傾げる姿に本当は、泣きそうだ。
昔のままの、馬鹿な。
あの頃のままの。
「寝るところ、ね。子供みたいだな」
けれど、せっかくデキル男になれたはずだから。
この部屋もかっこいいと思ってくれたようだから。
泣かずに笑って、頭を撫でた。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜても腕を組んだままぶつぶつ言うのをやめない。
「寝る部屋?寝る場所?ねるとこ?あーもう、寝室で……」
そうやって、訳の分からないことにこだわって、馬鹿で。
でも、ずっと無視されるのはいただけない。
組んだ腕を無理やり解いて引いて、腰に腕を回して顔を覗き込んだ。
「寝る、だけ?」
ゼロにまでなった距離で感じる温度に、一瞬また泣きそうになるけれど。
「ア?あー、それは、ねえ?」
「ねえ」
人形は目の下をほんの少し赤くして、でもにやりと笑って見せた。
和彦も笑って、それからキスをした。


「あー、じゃあシャ……風呂、先どうぞ」
手のひらで浴室を示すと人形は和彦の爪先を軽く踏んだ。
「えー。一緒に入んないの?」
「恥ずかしいから」
和彦の襟を掴んでいた人形はぽかんと口を開いて、それからぷっと吹き出した。
「――可愛いね」
「どーも。タオル、出しておくから」


思い出せる。思い出さない。思い出す必要が?
どこを触れば一番興奮するのか。どんな風にするのが好きか。どんな声を上げるのか。
全部知っているけれど。
思い出す必要があるのか?
思い出せる。覚えてる。
忘れられない。


「なんて呼んだらいい?ご主人様?」
ふざけた様子で聞いてくる頭を小突く。
「名前でいいよ」
彼は唇を尖らせた。
「じゃあ名前教えてよ。まだ聞いてない」
どこかが痛い。
無邪気にこちら見上げてくる。彼は自分の名前を知らない。全部ゼロから始まる。
当たり前なのに。
胸が、痛い。
「ああ、俺の名前はねえ、」
言いかけた口を押さえた。
「高橋、春樹」
枕の上で、彼はわずかに首を傾げる。
「あ、れ?知って、た?」
「うん」
あの、檻の外の貼り紙には花や星や色の名から取ったやたらきらきらきれいな文字ばかりが記されていた。
だから、もちろん彼にも。
どうせなら、あの頃の全部を早回しで繰り返せたらいいのに。
お互いの名前を知るところから全部。
ゼロから始まったはずなのに、二人はもうベッドの上だ。
あの、焦燥や、絶望だと信じていたものや、それらを越えた後の歓喜。
全部全部飛ばして。
和彦はとうとう耐えられなくなって、枕に顔をうずめる。彼の首筋に押し付ける。
柔らかい彼の髪からは自分のと同じ匂いがした。
それがあの頃と同じかどうかは、もちろん違うはずなのだけれど、分からなかった。
ほらやっぱり。
思い出せないことがまず一つ。
何もかも、覚えているつもりだったのに。

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