何度も君を (2)
高橋春樹は、知っている。愛し愛され平凡に笑いあって暮らした日々を。

だからその男に、その客に高橋春樹はそれを語った。
冷房の効きすぎたあの講義室での出会いから全部。
高橋春樹の記憶を。
自分が知っていることを全部。
男は古ぼけた木の椅子(棘が引っかかる危険性はちゃんと教えた)に腰掛けて黙って耳を傾けていた。
「お前は馬鹿か」
話が終わりかけた頃、彼は立ち上がり言った。
「客に他の男の話をするか普通?」
ぴたりと着こなしたスーツも冷たそうに整った顔も眼鏡を押さえる仕草も。
初対面でお前なんて言われたことも馬鹿呼ばわりも気にならない。
男の外見があまりにも好みだったので、高橋春樹はうっとりと言っていいほどの気分で彼を見上げた。
「……ごめん」
うっとりしたまま謝った高橋春樹に彼は首を振る。
「まあそれが、……いや、いい。ここから出るには?」
きっちり固めてあった前髪が一筋額に落ちるのなんかもものすごく。
すごく、なにもかも。
それなのに出て行ってしまうのか。なんだ。
「そこ、そこのでっぱってる赤いの押したらすぐ誰か来て開けてくれる」
落胆して、投げやりに壁のボタンを指差す。
「ああ、これ」
男はすぐにそれを押すと、その場から長い腕を伸ばして高橋春樹の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「っ、なにすんだよ!」
「何って?」
抗議した高橋春樹にそれはそれは魅力的に微笑んで。
「撫でられるの、好きだろう?呆けてないでさっさと準備してくれ」
「え?」
「ここを出るよ」

高橋春樹は人形だから売買は合法的に日常的にとても簡単に行われる。
男はなぜか顔を顰めながら提示された金額を払う。
係員のこの場には相応しい幾分卑猥な冗談にもにこりともしない。
男は何度か口を開きかけ、けれど何も言わずネクタイをいじり、眼鏡を押し上げそれから決然と手を差し出した。
「え?」
「手」
ああ。
顔が、赤い。
彼も、きっと自分も。

子供のように手を引かれながら高橋春樹は何度か振り返った。
自分がいたあの部屋。悪趣味で、狭くて。
「何か忘れ物?」
尋ねられて、慌てて首を振る。
「荷物とか、ない。さっきので全部」
「何?」
「だから、さっきの幸せな日々の思い出?だけ」
「……恥ずかしいやつだな」
男は苦笑しながら首を振った。

何もない。
思い出で、全部。

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